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山陰の小京都・津和野

9か月前

三原初上陸と秋の宮島記録

何故(なにゆえ)にノブヤボの「蜜月の終焉」まで辿り着けたかは好奇心の賜物としか言えないですけど。侮られやすい小役人の合祀郡名が存在するのは、定見のない小役人のその場凌ぎな体質が根幹にあるからああも侮られる、という歴史の不思議は調和的。段取り力もあって一件片付きREGZAのテレビが治りました、な今日この頃。

5か月前

ブイヤベー陶晴賢

大内義隆の辞世 戦国百人一首92

2022年10月1日 ナンだこのヤロー!

厳島合戦と陶晴賢を辿る秋旅

天文10年(1541)1月13日は吉田郡山城に籠る毛利元就が陶晴賢(隆房)率いる大内軍と連係し尼子軍を撃退した日。安芸国の国人領主の元就は大内と尼子の間で鞍替えを繰り返した。元就を救った晴賢が後に三大奇襲の一つ厳島合戦で元就に敗れ自害し毛利が飛躍。先のことって本当にわからない。

■【より道‐56】歴史が刻まれる聖地_それぞれの「厳島神社」

天文24年(1555)10月1日は厳島の戦いで毛利元就が陶晴賢を破った日。日本の三大奇襲戦に挙げられる。大内氏の実権を握る晴賢は暴風雨中の夜襲に遭い自刃。逸話や通説では偽情報や偽装内通など事前の謀略による準備が効果的だったという。劣勢をひっくり返したいなら下準備が重要ということ。

天分20年(1551)9月1日は大内義隆が陶晴賢の謀反で自害した日。大寧寺の変。当時西国随一の大内氏崩壊により勢力図が大きく変わるきっかけに。遠征失敗から義隆が政務放棄し文治派の重用で武断派の晴賢らと対立の結果。やる気を無くし部下の対立を招き組織が崩壊って一つの型でしょうか…。

■【より道‐12】長谷部元信

毛利元就と敗れた陶晴賢

2年前

大内義長の辞世 戦国百人一首73

陶晴賢の辞世 戦国百人一首65

伊香賀隆正の辞世 戦国百人一首㊻

天文10年(1541)1月13日は吉田郡山城に籠る毛利元就が陶隆房(晴賢)率いる大内軍と共に尼子軍を撃退した日。国人領主の元就は大内氏と尼子氏の間で巧みに振る舞うが大内氏へ服属を明確にし尼子詮久(晴久)が攻寄せた。毛利・大内軍との戦いで情勢不利な尼子軍は雪の中撤退し追撃を受けた。

天文24年(1555)10月1日は厳島の戦いで毛利元就が陶晴賢を破った日。逸話や通説では大内氏の実権を握った晴賢に元就は偽情報や偽装内通など事前の謀略をしかけた。晴賢は内通を疑った家臣を殺害し大軍が身動きとりづらい宮島におびき出される。暴風雨中から夜明けに奇襲を受け晴賢は自刃。

天分20年(1551)9月1日は陶晴賢(隆房)が謀反の兵を挙げ大寧寺の変にて大内義隆が自害した日。義隆が重用した文治派の家臣と武断派の晴賢らとの対立が招いた結果。晴賢は義隆の甥で大友宗麟の弟晴英を大内氏の当主に迎えた。当時西国随一の大内氏崩壊により勢力図が大きく変わるきっかけに。

中国・四国地方の石造物⑬:洞雲寺宝篋印塔(伝・陶晴賢首塚)

4年前