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周防大島の「陸奥記念館」を訪ねて

かなり前になりますが、「瀬戸内のハワイ」と呼ばれる周防大島を訪れた時のお話です。
 
周防大島が何故、瀬戸内のハワイと呼ばれるかといいますと、ハワイさながらの美しい海もさることながら、明治時代に日本とハワイの間で結ばれた官約移民(注1) という制度下で、周防大島から大勢の出稼ぎ労働者がハワイに渡り、その後、帰国した人たちがハワイで触れた文化や風習を周防大島へ持ち帰ったのが謂われのようです。

日本ハワイ移民資料館(Photo by ISSA)

(注1) 官約移民とは、条約に基づき政府の斡旋にで行われる移民のことで、1886年の日布移民条約下では、1894年までに周防大島から3,914人(全国で29,084人)がハワイに渡った
 
陸奥記念館
周防大島を更に東に向かうと、閑散とした海沿いに忽然と「陸奥記念館」が現れます。「陸奥」が意味するところは、戦艦「長門」の2番艦である戦艦「陸奥」のことです。
 
何故、人里離れたこの地に陸奥ゆかりの記念館が設置されているのか? 初めて来た人はそう思うに違いありません。

陸奥記念館(Photo by ISSA)

柱島と艦隊泊地
周防大島の少し北側には、初代・神武天皇が「東征」の際、平生を出て兄の三毛入野命との待ち合わせた岩国に向かう途中、お立ち寄りになったといわれる柱島という小島があります。
 
戦前、この海域は呉海軍工廠や徳山海軍燃料廠に近く、人目にもつきにくい場所であったことから、海軍が連合艦隊の泊地 (注2) として使用していました。
 
細部は後述しますが、陸奥は、1943年6月8日、記念館の北西約4.5kmの泊地に停泊中、謎の大爆発を起こして轟沈してしまったのです(その海域を望む場所に、陸奥記念館が設立された)。

柱島泊地と陸奥沈没地点

(注2) 柱島に軍事施設はなく、泊地の範囲は特に決められてはいなかったが、柱島の南西の北緯33度58分40秒・東経132度24分5秒に「旗艦ブイ」と呼ばれる艦を係留するためのブイが置かれ、呉への直通電話線が通じていたことから、そこが艦隊泊地の中心だったと考えられている

慰霊碑から柱島と陸奥沈没地点を望む(Photo by ISSA)

戦艦「長門」
陸奥の前に、先ず1番艦の長門のことからお話します。
 
戦艦大和と軍港「呉」の歴史」にも記載しましたが、日露戦争後に英海軍が30センチ砲を搭載したドレッドノート(弩)級戦艦を建造すると、大艦巨砲時代の幕があけ、1920年頃に日本も初めて41センチ砲を搭載する超弩級戦艦「長門」及びその2番艦「陸奥」を相次いで建造しました。
 
長門は、旧長門国(現在の山口県西部)を名前の由来に持つ日本海軍の戦艦で、八八艦隊構想 (注3) に基づいて建造された最初の戦艦でした。
 
長門は、世界でも初めて41センチ砲を搭載する超弩級戦艦として呉海軍工廠で建造され、大きさ・速さともに世界一を誇る軍艦でした。

戦艦長門の性能・諸元(Created by ISSA)

(注3) 日本海軍の建艦計画で、艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核戦力とし、所要の補助艦艇並びに第一線を退いた艦齢8年超の主力艦群を主軸として整備する構想(ワシントン海軍軍縮条約の締結で中止された)
 
1941年12月2日、長門に座乗する連合艦隊司令長官、山本五十六・海軍大将は、山口県岩国湾から「ニイタカヤマノボレ1208(ヒトフタマルハチ)」の暗号無電を打電。
 
この通信は、広島の呉通信隊や佐世保の針尾送信所を経由して、船橋送信所や依佐美送信所から真珠湾攻撃部隊に向けて送信されました。
 
そして、12月8日には柱島泊地の長門艦上で真珠湾攻撃成功の電文を受け取ったとされています。
 
その後、1942年6月にミッドウェー作戦、1943年9月にトラック泊地に進出、1944年6月にマリアナ沖海戦、1944年10月にレイテ沖海戦に参加し、1945年4月20日、横須賀で予備艦となり「浮き砲台」となりました。

「浮き砲台」として横須賀基地に停留中の戦艦長門

1945年の7月の空襲で被害を受け、その後、終戦を迎えました。同年8月30日、米軍に接収され、翌1946年7月29日、南太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁での米軍による核実験の標的となり沈没したのです。
 
なお、一連の核実験では、長門のほかにも多数の艦船が標的となりましたが、2度の爆発実験でも長門は沈没せず、4日間も洋上に浮かび続けたことから、造船技術の高さが証明されたと話題を呼んだそうです。
 
いずれにせよ、長門は最も長期にわたり連合艦隊の旗艦を務め、終戦まで生き残り、日本海軍の象徴として国民に親しまれた戦艦でした。

戦艦「陸奥」
一方、2番艦の陸奥は、旧陸奥国(現在の現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県)を名前の由来に持つ日本海軍の戦艦で、長門と同様に八八艦隊構想下で横須賀海軍工廠において建造されました。
 
山本五十六・海軍大将とともに日独伊三国同盟の条約締結に反対し、終戦時に海軍大臣、戦後は第37代内閣総理大臣に上り詰めた米内光政・海軍大将も、1924年に陸奥の艦長を務めていました。

戦艦陸奥の性能・諸元(Created by ISSA)

日本は、1903年に横須賀・呉・佐世保・舞鶴で海軍工廠を発足させたあと、1911年にイギリスに発注した戦艦「金剛」を最後に、その後の軍艦は全て国産で賄えるにまで成長しました。
 
しかし、長門・陸奥の建造時においては、未だ全てにおいて純国産という訳にはいかず、タービン主機、歯車減速装置、測距儀等は米国の設計品や輸入品でした。
 
それでも殆どは日本独自の設計で建造された超弩級戦艦であり、この時期の日本の建艦技術が世界レベルに到達していたといえるでしょう。
 
ただ、日本の急速な建艦技術の向上と長門・陸奥の出現は、列強各国の警戒心を高めることにもなります。各国が戦艦建造で国家予算を圧迫していたこともあり、列強を軍縮条約締結へと向かわせたのです。
 
1921年にワシントンで軍縮会議が開かれ、日本は戦艦と空母の保有総トン数を米英の6割に抑えられました。
 
その後、1930年のロンドン海軍軍縮会議でも、引き続き、日本は総トン数で米英比6割に制限されたほか、各国の新型艦の建造を1936年末まで禁ずること等が取り決められました。
 
結果、1920~30年代において41センチ砲を装備する戦艦は世界でも下記の7隻に限られることとなり、これらは「世界七大戦艦(ビッグセブン)」と称されるようになりました。
 
そして日本海軍は、1920年に軍艦保有トン数でも世界第3位となり、名実ともにイギリス海軍やアメリカ海軍と肩を並べる「世界三大海軍」と称されるにまで成長したのです。

世界七大戦艦(ビッグセブン)(Created by ISSA)

このように、戦艦長門・陸奥を中心に栄華を極めた日本海軍でしたが、その後、日本は欧米列強との戦争に突き進んでいきます。
 
陸奥は、1941年12月8日、真珠湾攻撃にともなう南雲機動部隊支援のため出撃。その後、1942年5月にミッドウェー海戦に参加、1942年8月にトラック泊地に進出、第二次ソロモン海戦に参加しました。しかし、殆ど敵艦と交戦することはなく、翌1943年1月には日本に帰還しました。
 
1943年6月8日正午過ぎ、柱島泊地に停泊中だった陸奥は、突然、後部3番砲塔付近から煙を噴きあげて爆発を起こし、やがて沈没。この事故で、乗員1,471人のうち1,121人が死亡、生存者は僅か350人でした。
 
この日、飛行予科練練習生152名が艦隊実習のため陸奥に乗艦していたのですが彼らの多くも命を失うことになりました
 
爆発時、360トンもの重量がある3番砲塔が、艦橋とほぼ同じ高さまで吹き飛んだようです。また、煙が出たあと甲板が後部からめくれて火炎が高く吹き上がったといわれています。

陸奥の沈没状況(陸奥記念館の展示物より)

当初、海軍はアメリカ潜水艦による襲撃を受けたと思ったようです。
 
やがて、付近にアメリカ潜水艦は存在しないと分かると、搭載されていた火薬の自然発火、人為的に引き起こされた爆発、海中にあった爆雷の誤爆など、あらゆる可能性が検討されたのですが、いずれも明確な証拠は得られず、今もなお爆発の原因は謎のままです。
 
国民の戦意喪失を恐れた海軍は、陸奥爆沈の事実を秘匿したため、事故が明らかになったのは戦後のことでした。
 
戦後、陸奥引き揚げの機運が高まり、1947年から引き揚げが試みられましたが、この時は残骸の一部が回収されたのみで間もなく中止されます。
 
その後、1970年に深田サルベージが大型船を投入して本格的な引き揚げ作業を再開しました。1978年までに艦体の半分以上が引き揚げられ、乗組員の遺骨・遺品・主砲など艦体の75%が回収されました(艦橋部と艦首部等を除く艦の前部分などが、未だ海底に残っている)。

陸奥記念館には、この引き揚げによって回収された物品をはじめ、全国から寄せられた遺品・資料が展示・保存されています。
 
また、引き上げられた陸奥の船体の一部は、放射線測定装置の遮蔽板として使われているほか、主砲などは、各地に展示されています。

左上:大和ミュージアム(呉)     
右上:ベルニー公園(横須賀)     
左下:海上自衛隊第1術科学校(江田島)
右下:船の科学館(お台場)      
 ※2017年、ベルニー公園に移設

おわりに
余談になりますが、陸奥記念館に隣接する「なぎさパーク」には、岩国基地に配備されている水上飛行艇「US-2」の前身である、新明和工業の傑作機「PS-1」が展示されていました。
 
同機は退役後、約30年近くこの地に置かれていましたが、昨年11月、残念ながら老朽化のため撤去されてしまいました。

(Photo by ISSA)

帰路、道の駅 サザンセトとうわのレストランで食べた、揚げたての大きなアジフライがとても美味しかったです。

陸奥記念館とPS-1遠くに柱島と艦隊泊地を望む
(Photo by ISSA)

「人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分のめぐり合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ」米内光政