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トルコ記念館を訪ねて

9月16日は、オスマン帝国の軍艦「エルトゥールル号」が、和歌山県・紀伊大島の沖合で海難事故に遭った日で、今年で133年になります。
 
事故現場に近い和歌山県・串本町では、例年、トルコ軍艦遭難慰霊碑前においてエルトゥールル号追悼式典が行われています。

事故が生起した場所
(Created by ISSA)

この事故で、600人もの乗員が嵐の海に投げ出されましたが、地元住民が献身的に救助したことで69人の命が救われました。
 
それから95年後の1985年、イラン・イラク戦争が勃発した時、テヘランに取り残された多数の日本人をトルコ航空が救出しました。
 
この一連の物語は、近年の小説化や映画化によって広く知られるようになりましたが、私自身は、以前からこの物語に強い思い入れがあり(その理由は後述)、兼ねてから記事化したいと思っていたので、今回は、このテーマについて取り上げたいと思います。
 
トルコ記念館について
事故現場のすぐ近くの和歌山県・串本町にトルコ記念館があります(写真は、昨年の夏に訪れた時のもの)。

トルコ記念館とその周辺
(Photo by ISSA)
太陽と月の関係にある日本とトルコ
(Photo by ISSA)

エルトゥールル号について
下表は、旧海軍の軍艦「比叡」と比較したものです。エルトゥールル号は、現代の外航船と比べるとかなり小さいですが、鉄骨木皮の当時の軍艦はとしては標準的なものでした。

軍艦「比叡」との比較一覧
(Created by ISSA)

日本に向けて出発
1887年の小松宮彰仁親王のイスタンブール訪問に応える親善外交(注1) のため、この船が日本に派遣されることになりました。
 
(注1) 歴史的に、海軍は外交活動の一端を担っている

  

1889年7月14日にイスタンブールを出港、インドやインドネシアなどを経由しながら11か月(注2) をかけて、翌1890年6月7日に横浜に到着しました。
 
(注2) 当時は帆走と蒸気機関を併用した航行が主流であったほか、座礁などのトラブルに見舞われ、回航にかなりの日数を要した

6月13日、エルトゥールル号の司令官オスマン・パシャ(写真・右)を特使とする一行は、アブデュルハミト2世(写真・左)からの親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国初の訪日使節団として歓待を受けました。

トルコ共和国の概要
(Photo by ISSA)

日本とトルコ、両国の間には、ある共通の想いがありました。それは、欧米列強との「不平等条約」の解消(注3) でした。
 
(注3) 日本とトルコの両国が平等条約を締結することによって、米欧との不平等条約を払拭するという思惑があった

エルトゥールル号の模型
(Photo by ISSA)

彼らは日本に約3か月滞在したあと、9月に帰途に就くことになりましたが、日本政府は台風の季節でもあり出港を見合わせるように助言します。
 
しかし、トルコ側は、内外に帝国の弱体化と受け取られかねないとの懸念から、その助言を聞き入れず、9月15日、エルトゥールル号は予定どおり横浜を出港しました。
 
海難事故の発生
翌16日の21時頃、台風による暴風にあおられたエルトゥールル号は、メインマストが折れてエンジンが停止。やがて紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突して機関部に海水が浸水します。そして水蒸気爆発を起こして、22時半頃に沈没しました。

トルコ記念館から事故現場を望む
(Photo by ISSA)

村を上げての救助活動
爆発・沈没から逃れ、辛うじて樫野埼灯台の下に漂着できた乗員は、灯台の灯りを頼りに高さ40メートルもの断崖をよじ登り、助けを求めました。 
 
事態を察知した灯台の逓信省職員が、樫野区長に一報し、知らせを受けた大島村長の沖周(おき あまね)は、直ちに村民を集めて総出で救助活動に全力を尽くします。(注4)
 
(注4) 
村長は、10月1日までの綿密な記録を日記に書き留めた(トルコ記念館にて保存)

左上:第1通報者の灯台職員
右上:村長の沖周     
右下:村長の日記     

生存者の大半は傷を負っていたので、村の医者が治療する一方、村人たちは衣類や食べ物を提供しつつ、出来る限りの医療支援も行いました。
 
当時の紀伊大島は、僅か400戸程度の貧しい農漁村の島でした。それにもかかわらず、村人たちは損得を顧みず献身的に奉仕し、不眠不休で生存者を介抱し続けたのでした。
 
この結果、乗員656名の内、69名の命が救われました(司令官のオスマン・パシャを含む587名は死亡または行方不明)。また、村長は沿岸と海上に捜索隊を出し、280余の遺体を回収して手厚く弔いました。
 
17日夕刻、村長は海軍省と呉鎮守府に打電。その後、生存者らは紀伊大島に急行したドイツの軍艦「ウォルフ」によって神戸へと移送されました。

神戸の病院に移送された生存者たち

更に、村長は、県を通じて日本政府にも通報し、それを聞いた明治天皇は政府に可能な限り援助を行うよう指示しました。
 
新聞各社も大々的に報じ、多額の義捐金や弔慰金が寄せられたといいます。
 
後日、トルコ側が治療費用を請求するようにと要請してきたのに対し、医師たちはこのように返信しています。
 
「初めからお金を請求するつもりありません。痛ましい遭難者をただ気の毒に思い行ったことです。」

本国への生存者送還
事故から20日が経った10月5日、大日本帝国海軍の軍艦「比叡」「金剛」が神戸港で生存乗員を分乗させて、1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブールまで送り届けました。

イスタンブールに着いた軍艦「比叡」と乗員たち
(Photo by ISSA)

比叡と金剛に乗艦していたのは、江田島の海軍兵学校を卒業し、少尉候補生となった秋山真之ら88名で、トルコ国民は感謝の念をもって日本海軍一行を大歓迎しました。
 
比叡艦長で薩摩藩出身の田中綱常・海軍少将が、オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世から勲章を下賜されました。
 
こうした国を挙げての救助活動がトルコ国民の心を強く打ち、やがてトルコの教科書にも載るようになっていったのです。
 
樫野埼灯台及び周辺史跡
樫野埼灯台は、紀伊大島の東端に建つ日本初の石造灯台で、かつ日本初の回転式閃光灯台です。「日本の灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ブラントンが設計し、1870年7月に初点灯しました。
 
沈没現場を見下ろす丘の上には、乗員の共同墓地と慰霊碑があり、ここでは、今でも冒頭で紹介した追悼式典が行われています。

左上・右上:樫野埼灯台     
左下:ケマル・アタテュルク騎馬像
右下:トルコ軍艦遭難慰霊碑   
(Photo by ISSA)

続く両国の絆の物語
時は下って1985年、イラン・イラク戦争で情勢が緊迫化する中、イラン国内には、国外に退避できず途方に暮れていた200人以上の日本人が居ました。
 
イラクのフセイン大統領が 「48時間後にイラン上空の全航空機を撃墜する」と発表すると、イラン国内はパニックに陥ります。

(Photo by ISSA)

世界各国は自国救援機をイランに派遣する中、日本たけが自衛隊機も民間機も派遣できずにいました。
 
その窮状を救ったのはトルコ政府でした。2機のトルコ航空機をテヘランに派遣し、215人の在留邦人を救出しました。

在留邦人たちの感謝の言葉に対して、トルコ政府ははっきりとこう答えたそうです。

「私たちは、95年前の日本人の恩を忘れていません。」
 
親日国トルコ
こうした経緯から、トルコには親日家が多いと言われていますが、そのもうひとつの理由として、東郷平八郎の存在も挙げられます。
 
1905年の日露戦争での勝利は、ロシアによる植民地化を防ぐのみならず、多くのトルコ国民を勇気づけたからです。
 
実際に、アドミラル・トーゴーは「東洋のネルソン」と讃えられ、多くの子どもに「トーゴー」という名前がつけられたそうです。
 
おわりに
冒頭で、「この物語には、個人的な思い入れがあった」と述べた理由は、次の3点です。
 
① 世界の海軍史のひとつであり、生存者を送還した比叡には秋山真之が乗っていたこと

② 紀伊半島沖での海難救助であったこと

③ この救出劇が、自衛隊による邦人救出作戦への機運を高めるきっかけになったこと

そして、2014年7月に「海の翼」が初版発行され、

2015年12月には日本・トルコ合作で「海難1890」が映画化された…。

おわりに
日本人のDNAには、今もなお、驚くほどの「ホスピタリティ」が備わっています。
 
今年2月のトルコ南東部地震では、JICAを中心とする国際緊急援助チームが、果敢に救助活動を行いました。

私たちが忘れてはならない日本人の心意気がここにあります。こうした日本人特有の崇高な使命感が、本当の国益の源泉なのです。
 
真の友は、危機にあっては損得勘定を乗り越えて互いを助け合うものです。しかし、偽りの友は、常に損得勘定でしか物事を判断できません。
 
残念ながら、日本の周辺は偽りの友に囲まれてしまっているのですが、私たちは、偽りの友と打算的に交流するのではなく、こうした普遍的価値を同じくする国々との友好・交流を、もっともっと大事にした方が良いのではないかと、そう思います🍀