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永遠と対抗しうるのは、じつは瞬間じゃないか?(だから今を生きるしかないんじゃないか?)

大江健三郎が亡くなりました。
文芸誌には数多の追悼文が寄せられ、新聞の歌壇には彼を悼む歌が多く入選していますね。僕は権威に弱いので、芥川賞作家とか、中高の国語便覧(懐かしい)に詳しく掲載されている作家とか、海外で人気の日本作家とか、そういう評判のいい作家は、よし読んでやろうという気分になって手を出します。ノーベル文学賞作家である大江健三郎も、当時高校生くらいだったでしょうか、大江朝なんて呼ばれるようなまさに権威ですから、もちろん一作買って読もう思ったのですが、これが全くちんぷんかんぷんでした。全体感や筋がよくわからないまま、四国の森?谷?に広がるもやっとした霧の中を進んでいく不安感。十ページも読み終わらず、積読行きになったことを覚えています。今思えばあれは、全く読み進めるための準備が足りていなかったのですね。準備といっても知識とかスキルがなかったということではなくて、読むべきタイミングになかったという意味ですが。

そして時は流れ、ひょんなことから、僕はその大江健三郎著「燃え上がる緑の木」三部作を昨年末に読み始め、様々な文芸作品からのあまりに多い引用に何度もくじけそうになりながらも、どうにか読みきりました。そしてその不思議な読後感(理解できたわけではないけど、なぜか勇気づけられる。わかりきっていなくても、書き手を信頼して安心して読み進めていくことができる)がとても気に入り、他の長編小説や、初期の短編集、エッセイなんかをいくつか読んでいたところ、訃報が飛び込んできた訳です。先に断っておきますが僕は文学に対し全く不勉強で、読書も趣味の一つ。そして職業もクリアソン新宿というサッカークラブの運営をしている、文学とは程遠い仕事をしています。大江健三郎の訃報に寄せて、その功績と現代における意味をふんちゃらかんちゃらなんてことはできませんが、ただ、僕が大江健三郎から、もっと言うと「燃え上がる緑の木」から受け取ったパワー、エネルギーみたいなものをぼんやりまとめてみたいなと思いnoteを書いてみました。

燃え上がる緑の木

「燃え上がる緑の木」のあらすじは割愛します。それだけで途方もない文字数になってしまう。。時間がある方はぜひ読んでほしいですし、ない方は2時間と月額980円用意してもらって、NHKオンデマンドで100分de名著の「燃え上がる緑の木」の回(30分×4回)を視聴してください。伊集院光の進行がわかりやすいです。
この三部作で、僕がとりわけ感銘を受けたのが、ギー兄さんによる最初の説教、「一瞬よりはいくらか長く続く間」です。読んだことがある方ならきっと印象深いこのシーンに僕もひどく心打たれました。

四国のある谷の村に、ギー兄さんと呼ばれる人がいます。彼は村人の精神的支柱であり、ある意味で救い主であり、新興宗教の教祖ともいえる人物です。ある日、死に至る病気に苦しむ少年カジのもとをギー兄さんが訪れます。カジはギー兄さんに救いを求め、こう不安を打ち明けます。

僕は、近いうちに死ぬと決まっておるが、痛いやろうとか、息が詰って苦しいかとか、そういうことは、恐ろしゅうない。~中略~ただ僕が怖いのは、自分が死んだ後でも、この世界で時間が続いていくことです。しかも自分がおらんのやと思うと、本当に死ぬことが厭です。
僕もアレを考えるのは止めたいんですよ。~中略~アレは考えまい、と自分にいった百分の一秒後には、もう自分が死んだ後の、永遠に近い永さの時間を汗びっしょりになって考えていますよ。

燃え上がる緑の木 第一部 救い主が殴られるまで/大江健三郎
(以下引用部分はすべて同作から)

14歳のカジは、持病によって寿命が長くないことを知っていますが、死そのものやそれに付随する肉体的な痛みに怯えているわけではありません。自分は一般的な寿命よりも短い人生しか生きることができない。だからこそ本当は生きることができたはずの時間が自分の死後も続いていくことをありありと感じる(そしてその時間は脈々と永遠に近い永さまで続いていく!)その、果てしなさに思いが至り、恐ろしさがこみあげてくるのだと思います。

僕はカジの気持ちがよくわかる気がします。恵まれない境遇や不公平に打ちのめされ、物事をなんでも悲観的にとらえてしまうこと。そして、カジがそういう気分で囚われてしまっている、死後の永遠に近い永さの時間の「永遠さ」とでもいうべき途方もなさへの恐怖。
想像もつかないほどスケールの大きいものに対する恐怖心ってありますよね。僕は真っ暗な深海のドキュメンタリーとか怖くて見ることができません。途方もない量の海水に入っていくちっぽけな自分の生身を考えてしまって、部屋にいるのに冷や汗を書いてしまいます。

ああ怖い

同じように、宇宙のうん十億という年齢から考えたら自分が生きている時間なんてほんの、ほんのちょっとです。僕がこの短い生で成し遂げることにどんな意味があるだろう(いや、全くない!)精一杯勉強して何か資格とっても何も残らない。どこかの川の護岸工事を指揮して流域一帯を救ったら、記念碑が建てられて結構残るかもしれませんが(石は何万年単位で残る!)
それでも地殻変動が起こり、地球が太陽に飲み込まれ、巨大なブラックホールが太陽系を飲み込んで、、というスケールで考えれば、僕の生は全くちっぽけな存在です。恐ろしいですし、このような視点から考えると、この人生に生きる意味はあるのかと疑いたくなりますね。
カジも同様にただでさえ人より短い自分の生にどのような価値があるか、わからなくなっているのではないかと僕は思いました。

一瞬よりはいくらか長く続く間

生きることに希望が持てないカジに、ギー兄さんは次のように伝えます。

ほとんど永遠に近いくらい永く生きた人間のことを想像してみよう。それこそ大変な老人になって、皺だらけで縮こまっているだろうけれどもさ。その老人が、とうとう永い生涯を終えることになるんだ。そしてこう回想する。自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとして何がきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮かぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? そうすればね、カジ、きみがたとえ14年間しかいきないとしても、そのような人生と、永遠マイナスn年の人生とはさ、本質的には違わないのじゃないだろうか?

例え永遠に近いほど長く生きた人でも、死ぬ間際に思い出すのは、一瞬よりはいくらか長く続く間なのだと。それは、もうすぐ短い生を終えようとするカジと永遠に近いほど生きた人を比べた時、生きる価値はなんら変わらない、というギー兄さんからのメッセージなのでした。 

しかし急に「一瞬よりはいくらか長く続く間」と言われても、それはどれくらいの時間やねん、と思いますよね。きっとこれは何秒とかいうものではなくて、人によってその時の感じ方によって時間が変わるので、一瞬よりはいくらか長い、という言い方になるのでしょう。大江健三郎はこの「一瞬よりはいくらか長く続く間」という概念について初めて出会った時のことをこう描写しています。

この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまだ明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……

生まれて初めて感じるような、深ぶかした気持で、全身に決意をみなぎらせるように、シュガー・メイプルの木をもう少しだけ見ていようと思った。このように描写されると「一瞬よりはいくらか長く続く間」という概念に対する説得力が増すような感じがあります。皆さんも、もう少しだけこの瞬間が続いてほしい、味わっていたい、というような一瞬が人生のどこかにあったのではないでしょうか。

僕は昔、サッカーの試合をピッチ脇で見ていた時、ゴールキックで高く上がったボールが選手の頭に落ちてくるまでの間に「一瞬よりはいくらか長く続く間」を感じたことがあります。うまく言えないんですが、ボールが宙に浮いて、でも確実に次のヘディングに向けて時間は進んでいて、でもその瞬間に周囲の声や、土埃や、空の青さなんかがはっきりと感じられて、というような。
実は一昨日も「一瞬よりはいくらか長く続く間」を感じるシーンがありました。4/23(日)に行われた天皇杯予選のクリアソン新宿対法政大学の、クリアソン三点目の直前、11番伊勢のヘディングです。僕はスタンドでその瞬間を見ていたのですが、ヘディングされたボールが高く上がって、走って来た池谷の足元に収まるまでの一瞬に、何か永遠に近いような、息をのむ瞬間がありました。(以下リンクの4:30秒くらいのシーン)

我が同期 ナイスヘディング

どのような人生であれ、向き合う態度はお前が決められる

信号の向こうのシュガー・メイプルのきらめき。高く上がったボールがゆっくり落ちてくる放物線。そういった人生の節々に現れるきらめきに対して集中することがポジティブな力を与えてくれる、とギー兄さんは言っています。

永遠と対抗しうるのは、じつは瞬間じゃないか? ほとんど永遠にちかいほど長い時に対してさ、限られた生命の私らが対抗しようとすれば、自分が深く経験した、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景を頼りにするほかないのじゃないか? ~中略~ 明日からいつでも一瞬よりはいくらか長く続く間を経験することができるだろう? それを感じ始めたらすぐさまさ、永遠の感じとくらべてみればいいんだ。いつも死んだ後の永遠に近い時を考えているカジになら、それは楽にできるはずだよ。そのうちね、永遠も結構だけれど、今経験している、一瞬よりはいくらか長く続く間の、この光景も相当なものだと、やはりカジならばいうのじゃないか?

残り少ない寿命の中でも、朝起きて、陽の光を浴びて、散歩をしたり、ご飯を食べたり、家族と話したり、思わぬ便りがあったり、布団がふかふかだったり。変わらぬ生活のワンシーンも自分がどういう態度で接するかで全く違うものになる。どんな景色もシャッターの押し方一つで素晴らしい写真にもありきたりな写真にもなる。ギー兄さんは、アドラー心理学やヴィクトールフランクルに通じるような、「どのような人生であれ、向き合う態度はお前が決められる」というメッセージを「一瞬よりはいくらか長く続く間」という言葉に込めてカジに伝えたのでしょう。

僕は、この考え方にとても共感しています。アドラー心理学と呼ばれるような一連の自己啓発書(嫌われる勇気とか)からは、わかりやすい表現のおかげで、系統立ててこの考え方を理解することができました。
フランクルの「夜と霧」を読んだ時には、収容所の死と隣り合わせの極限状況に置かれたからこそ言える状況描写からくる説得力を感じました。(井筒陸也先生も夜と霧を読めと申しております)

そしてこの「燃え上がる緑の木」からは詩的な表現で、カジの人生を救済するシーンとして、「どのような人生であれ、向き合う態度はお前が決められる」≒「今この瞬間を大事に生きていくしかない」というポジティブなメッセージを受け取りました。(少なくとも僕はそう読みました)
うまく言えないのですが、カジが恐ろしくてたまらなかった永遠を手掛かりに、その鮮烈な対象として「瞬間」のすばらしさと、自分の態度次第で現れてくる、「生きる喜び」を描いて見せたこのシーンを読むことができて、僕は幸運だなと思うのです。
カジはやがて病気でこの世を去りますが、ギー兄さんとのこの対話を通して、残り僅かな生を前向きに大切に生きることができたのでしょう。

アルチュール・ランボオ 「永遠」

燃え上がる緑の木ではこのギー兄さんによる最初の説教のすぐあとに、中原中也訳のアルチュールランボオの、かの有名な一節が引用されています。

翌日、ギー兄さんがカジを見舞う際に間に合うよう、私が書庫から持ち出しておいた中原中也訳「ランボオ詩集」の「永遠」は、次のように始まっていた。

また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去つてしまつた海のことさあ
太陽もろと去つてしまつた。

ギー兄さんの説教では、「永遠と対抗しうるのは、じつは瞬間」でした。しかし同時に、「瞬間」にこそ「永遠」が含まれている、と大江健三郎はここで言いたいから、ランボオの詩を引用しているのだと思います。そして僕もそういう感じわかる~と思うのです。(そしてランボオもまた、海に沈む太陽をみるその一瞬よりはいくらか長く続く間、永遠を感じていた!ということかもしれません)
シュガーメイプルが揺れている時、放物線を描いてボールが落下してくる時、伊勢がヘディングしたボールが池谷の足元に収まっていく時、ストップウォッチで測ればそれは数秒のことでしょう。でもどこかその光景がずっと続いていくような"感じ"がある。その瞬間に集中することで、効率とか合理性とか、次にやらなきゃいけないタスクとかから頭をリフレッシュするような、その一瞬だけ時間を忘れるような、そんな感覚です。
僕らは永遠を知覚できませんが、「一瞬よりはいくらか長く続く間」を深々と味わうことで、永遠に似た感じを感じることができるのではないでしょうか。

あとがき

クリアソン新宿とはほとんど関係ないポエミーな投稿になってしまいました。でも人生はポエムなので、何の問題もありません。広げようと思えば「一瞬よりはいくらか長く続く間」をたくさん味わえるスポーツの現場の素晴らしさと、味わいにくくなっている日常生活の違和感みたいなこともぼんやり考えているのですが、長くなりそうなのでまた別の機会にまとめてみたいと思います。ともかく、皆さん人生は自分次第だから、頑張っていきましょう。おわり。

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