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何も恐れるな。むしろ恐れられろ。

ネットをやっていると知らない人からのコメントが来たりする。肯定的なコメントもあれば、否定的なコメントもあり、後者であればイラッとする。「お前は誰だ」と思う。

基本的には肯定的なコメントが多いから、気に病む必要もない。誤解を恐れていては何もできないのだ。他人は自分が思っているよりも自分に興味を持ってはいない。

もちろん興味を持ってくれている人もいて、尚且つ、その人が優しく接してくれるとまあ好きになっちゃうのである。ほとんどの場合で「好きです!」と伝えたくなる人はサイレントマジョリティーだ。

ネットの七大不可思議の一つに、「まったく見知らぬ他人が自分自身を私に投影してくるパターン」がある。それは私に言うことではなくて、あなたがあなたに言ってあげること、というか、私をできれば巻き込まないで自己解決してほしいと思う。

もう一つの不可思議は、「自己紹介の欠如」だ。冒頭にも書いたが、「あなたは誰なのパターン」があまりにも多すぎる。「あの時の鶴です」くらいの自己紹介くらいはしてほしい。しないのであれば、礼儀正しく失礼のないように。

さらにもう一つ不可思議がある。「あなた、私の文章読んでいますかパターン」である。2000文字くらい平均で書いている。でも、「一行しか読んでいませんよね?」と耳打ちしたくなるときがある。

顔出し・本名出しでやっている人はもうそれだけである程度の責任をとるつもりがあるわけだから「いいね!」と思う。匿名であっても、知り合い同士なら何の問題もない。

自分の書き込みがどういう風に読まれているかは予測ができない。相手の都合のいいように読まれて、それで小言を言われる可能性だってある。そうでなくても、誤解をさせる恐れはつねにつきまとう。

肯定してくれる人はそばにいてくれる。否定的な人は俺のそばにいて俺の面倒は見てくれない。当たり前か。当たり前じゃない。否定的な人はそばにはいてくれないのだ。どうせ、なにも、しては、くれない、のだ。これは単なる愚痴か。ノー。否定的な人はどうせ、なにも、しては、くれない、のだ。

何も恐れるな。むしろ恐れられろ。自分はメンタルが、こころが弱いほうだと思う。打たれ弱い。が、一方で「魂は強い」と思っている。これは自分だけの傾向ではない気がしている。

完全無欠の魂を人は持っているようには思う。「心の器」の話はよくされるが、魂の器の話はそうされないのは、魂の器は断崖絶壁から見渡す海のように壮大で厳かだからだと思う。

今、社会が求める「こうあるべき姿」に適応できずに苦しんでいる人が大勢いる。こうあるべきに従わないと生きていけないように思えて、それがとても苦しい。

善と悪で分けられ、健と障で分けられ、自分が小さく思えてくる。やりたいようにやりなよと言ってくれる人もいる。オーケー。じゃあ俺を見届けてくれよな。

外野からの1000の言葉より、身内のたった1つの肯定が遥かに価値を持つ。あくまで誤解は誤解だ。誤読は誤読だ。

人間をよく見ていく。悪いところばかりじゃないはずだ。良いところもあるはずだ。いや、あった。あったよ。たくさんあるよ。

潰そうとしてくる人もいるけれど、関係ないよ。そんなの。想ってくれてない人の意見を採用しなくたっていいんだよ。想ってくれていない人の言葉を聞いての成功より、想ってくれている人の言葉を聞いての失敗のほうがいいよ。

生きてます