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ドンキのヘアジェルが欲しくて寒風に立ち向かった――自分と向き合う夜中の散歩

夜中。俺はつくづくバカだと思った。腕時計を見た。家を出てから2分20秒が経過している。このタイムは走り出してから俺の脇腹が痛くなるまでを意味している。

事の顛末を書く必要があるのか。まあ、あるということにしよう。つい先日の話だ。その日は明け方まで起きているのは確定していた。時刻は深夜の1時だった。

YouTubeを見ていて、たまたま見かけたヘアセットのショート動画にドンキのヘアジェルが美容師界隈でも使われているというのを知った。格安で大容量。レビューもいくつか見たら、唐突に俺はその「Dジェル」が滅茶苦茶欲しくなってしまった。2年間伸ばしていた髪を切ったばかりで、髪型にこだわりたくなっていたのだ。

去年、引っ越した。それまでドンキは歩いて15分のところにあった。だが、今はもう違う。Googleマップを開く。自宅からドンキまでの距離を測る。

「1時間5分」

5キロ近くある。きつそうだなと思った。しかし閉店までまだ3時間の猶予がある。今から行けば、店内を1時間以上はうろつくことができるはずだ。

同じ部屋にいた彼女に「今からドンキへ行ってくる」と真顔で言ったら、「マジか!」と返ってきた。ドンキの電子マネーは【majica/マジカ】という名前だ。彼女はそれを知っていてわざと言ったのだろうか。天才だと思う。

服を着替えて10分間、真顔で部屋の真ん中に立ち尽くしていた。行きたくないと思う。寒そうだとも思う。だが、物が欲しくなったら、すぐに買いたくてウズウズしてしまう性分だ。意味のない葛藤をしている暇があるなら、今すぐにでも駆け出したほうが早い。

玄関の扉をパーンと開け放す。滅茶苦茶寒い。もれなく強風も付いてきた。ドンキのヘアジェルを買うために、こんなことをする必要があるのか。ないのだろうが、あるのだ。

その日の前日、散歩している最中に試しに全速力で走ってみたら、運動会のお父さんみたいに足がもつれて倒れそうになった。運動不足だ。自分がどれほど日頃から「走ること」から遠ざかっていたのかを痛感した。

実際のところ、走ってみて非常に気持ちよかった。その気持ちを引っ張っていたから、この日、ドンキまでのモチベーションがあったわけである。走っていこう。そう決めていた。

そして冒頭に戻る。俺は走るとすぐに脇腹が痛くなる。そのことをすっかり失念していたせいで、走り出して3分も満たない間に勢いを失った。しかも手袋を持ってこなかった。手がかじかむ。

天気アプリの気温は4度になっている。だが、風が強く吹いていて体感は0度くらい。人間は走ると体感温度が10度ほど上がると聞いたことがある。気温が4度なら14度の中にいるような感じになる。

それを見越して、パーカーだけで行ったのが間違いだった。寒い、寒い、寒いと思った。しかも気持ちも冷めてきっている。途中、歩いて15分のところにコンビニがあるが、もうそこで踵を返そうかと思った。

だが、そこで帰ったら、何もかもが無意味になる。もう少しでいい。もう少し歩こう。そしてちょっとでいい。走ってみよう。そうやって自分を奮い立たせながら、国道沿いをひたすら進んでいった。

脇腹の痛みが引いたら走って、また痛くなったら歩いてを繰り返す。そのうち体力自体なくなってきて、もう歩くことしかできなくなってしまった。

誰一人すれ違わず、横を大型トラックがバンバン過ぎ去る。夜中とはいえ、意外と明るいものだなと思った。マンションの明かり、街灯、信号機、生け垣に埋め込まれたライト、車のヘッドライト。

こういうとき、いつも思うことがある。今ここを歩いているのは自分だけなんだよな。それは当たり前のことなのだが、今、この世界でここを歩いている人間は自分だけだ。なんと言ったらいいか。悪い気持ちはしない。

24時間営業のラーメン屋の駐車場がびっしりと埋まっていて、嘘だろと思って店内を覗いたら、客席のほとんどが埋まっているように見えて驚いた。こんな時間に十数人がラーメンをすすっている。それは俺にとってなんだか仲間を見つけたようで嬉しくなったが、同時に虚しくもなった。

一蘭というラーメン店もあり、女性二人が店内から出てくる。それを道の反対から見ていると、店の裏側にある駐車場にタクシーが停まった。タクシーは女性側のほうへ近付こうとするのだが、「そこでいいです!」と一人が大声で言う。しかし運転手には聞こえていない。国道を走り出していくタクシー。あの二人はどういう人生を送っているのだろうかと思った。

一人ぽっちでとぼとぼと歩いているときはつい、過去にあった思い出したくない恥ずかしい出来事を思い出してしまって、吐き気を催す。これがベッドに横たわっているときなんかはなるたけ早く布団から出なければいけない。そうしないと思考は暴走を止めない。これが外の場合は対処法も変わる。とにかく外側に目をやるしかないのだ。

向かっている方向は前に住んでいた地域だったが、ところどころ新しい建物ができていて、それ以前にそこに何があったのか、さっぱり思い出せなかった。

ゲームをやっていたらあっという間に過ぎる。寒くて暗い道を歩いていたらとてつもなく長く感じる。そんな1時間を経て、ようやく目的地に辿り着いた。やっと着いたという安堵感と、一刻も早く暖房が効いている屋内に入りたいという気持ちが入り混じっていた。

店内をぐるりと見回しながら、せっかく来たのだからとカートのカゴにお菓子をどんどん入れていく。帰りのことを考えて、重たい物はあまり買わないようにする。

狭い通路で立ち止まって、煎餅の価格と内容量を真剣に比べていると、黒いパーカーのフードを被った女性が、俺の後ろを通ろうとした。そのとき、ぶつかったわけでもないのにコケそうになりながら通り過ぎていった。ドキッとして横目で見たら、どうやら酔っ払っている。その後ろを彼氏らしいスラッとした背の高い男性がついていって、「そういうのやめて」と言った。

会計すると2000円を超えていた。不可解に思ってレシートをくまなくチェックしたが、間違いは一つもなかった。

外に出ると、さっきよりもずっと風が強くなっていた。ここから1時間。覚悟を決めた。後は帰るだけ。行きよりも気持ちは楽だ。

前に住んでいた家のことが気にかかっていた。老朽化による立ち退きだったので、今はどうなっているのか。見ないで通り過ぎることもできるが、見ないと気持ちが成仏しない気がした。

目の前に着いたとき、想像していたよりもずっと立派な三階建てのマンションが建っていた。15年も住んでいた家は跡形もなく姿を消し、自分たちが住んでいたという痕跡はもうどこにも見当たらない。入口前に立つと、ずっと点いているフラッシュみたいな光が俺を照らした。

立ち退きをめぐるイザコザや、神経が尖り続けていた去年の春を思い出したら、気持ちが沈んできてしまった。さっさと帰ろうと思って、再び歩き始めると、前から歩いてきた女性がすれ違いざまに距離をとる。しょうがないことだとは思っていても少し悲しくなる。

下を向きながら歩いていると、停まっている車の下には寒そうにして動かない猫がいた。こちらに気付いてはいるようだが、この寒さの中、俺のせいで逃げて走らせるのもよくないなと思って、そっと離れた。

「俺も生きるから、お前も頑張れよ」と小声で言って、線路沿いを進む。明け方が近づくにつれて、始発に乗るであろう人たちとすれ違い始める。

自分で言った「頑張れ」が妙に引っかかる。生きることは苦しい。それはみんな一緒だ。それなら何がいけないのと思う。

リュックが重い。ポケットからスマホを取り出して、文字を入力しようとしたが、手がかじかんで上手く打てなかった。なんとか彼女にLINEをして、現在地を知らせる。

向かい風が吹くと、寒すぎて眠くなってきて、追い風が吹くと、体が勝手に前のほうへ進んでいってしまう。すべて耐え凌ぎ、ようやく家に着いた。

部屋に入ると暖かく、メガネが一瞬で真っ白に曇った。彼女が温かいそばを用意して待ってくれていた。家の豊かさは半端ないと思った。行きから帰りまでの些細な出来事を話しながら、そばをすすった。骨身に染みた。

正直言って真冬の夜中に何時間も歩くのはバカなことだったと思う。でも、そのバカなことをこうして記録に残そうと思うのだから不思議だ。そして、その記録を見たあなたも、少しは俺の気持ちが分かってくれるのだろうか。

生きてます