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髪を切って愛に気付いた、俺の奇妙な冬の物語

「最近いい世の中になったね」なんて言える日が来るといいなと思う今日この頃。先日、大井競馬場へ行った。結果は惨敗だった。俺に投資してくれた友人に申し訳なくて、一週間ほど寝込んだ。

そのショックを払拭したいが、一体どうすればいいのかわからなかった。無意識の中を悔恨が暴れているのか、洗面台の前に立って鏡を見ると、突然、髪を切りたくなってしまった。

思い立ったが吉日という性分だ。俺はハサミを手に取り、風呂場に向かった。伸ばし放題だったロン毛に、最初ハサミを入れるときはドキドキした。毛先を10センチほどバサッと切り落とす。勢いが生まれる。バサッ、バサッ、バサッ。勢いが加速する。バサバサバサ。

結果は惨敗だった。とんでもない髪型になってしまった。文章だと結果まで一瞬の出来事のようだが、冬の寒い日、全裸で三時間かかった。それなのに「失敗」なんてもんじゃない「大失敗」だった。

ショックにショックを重ねて、俺は再び寝込むことになった。どうして、俺はこんな人間なのだろう。何をやってもうまくいかない。一体全体何のせいなのか。何かの「せい」だと思っている時点でだめなんじゃないのか。いや、わかってはいる。俺は根本的に自分に自信がないんだ。

自信は「持つもの」なのか。本当のところどうなのか。持つだけなら、どこかで落っことしてしまいそうな脆さを感じる。他に言い換えられそうな言葉は今は見つからない。

しかし、髪がボロボロでは自信以前の問題だ。人は見た目ではない。だとしても、髪型一つで気分は上がりもすれば下がりもする。いっそ競馬で負けたことは忘れよう。問題はヘアだ。

セルフでだめなら、人を頼るしかない。俺は美容院が大の苦手だ。そもそも「院」がつくところはすべて苦手だ。周りを見渡す。お、こんなところに適した人間がいるではないか。そう、弟。この方なら俺の髪を成敗してくれるはずである。

頭を下げた。弟は絵を描いている途中だったのに、その時間を犠牲にして、俺の髪を切ってくれることになった。

再び全裸になり、風呂場に入った。真冬。とてもじゃないが、ドアを開けたままでは風邪を引いてしまう。セラミックヒーターを風呂場の中に置く。コードが邪魔で扉は閉まりきらないが、これで凍死は避けられる。

本当はリビングでやればよかったのだ。暖房が効いた明るい部屋で、悠々自適にやればよかったのだ。風呂場はとても狭かった。俺は弟に「あっち向いてこっち向いて」とあっち向いてホイのように言われて、椅子に座りながらグルグルと方向を変え続けた。

一時間ほど苦戦したのち弟は言った。「リビングでやるのが正解だったですな」。

「難しいな。ちょっとやりにくいから立ってくれ」

「前髪を切る。こっちを向いてくれ」

俺は風呂場の中で、全裸だった。フルチンだ。頭の中がメタ認知的になる。「この図はなんだ」。

三時間が経った。いい感じになった。ありがたかった。

せっかく手間暇をかけて切っていただいたのだ。俺は横がもっさりと膨らんだセンターパートで、夜な夜なスーパーへ行った。半額のメンチカツを買って、意気揚々と帰った。冷蔵庫の中にメンチカツを置いて、冷蔵庫の扉に磁石で貼り付いているホワイトボードに「メンチカツ食べてね♡」とマーカーペンで書いた。

次の日、鏡の前に立った。頭痛がした。俺はセンターパートが似合わなかったのだ。ガッカリした。切ってもらった直後はハイになっているから気付かなかった。

その日のうちに弟に土下座をした。「髪を切り直してほしい」。頭頂部だけで逆立ちするくらいの勢いで願い出た。そしたら、快く了承してくれた。持つべきものは自信ではなく弟だったのである。

再びフルチンになって、風呂場に入った。ジョキジョキジョキ。そのハサミの音がとても心地よかった。狭い風呂場の中をバレエダンサーのようにグルグルとするのにも慣れた。

そして二時間が経った。結果は大成功だった。成功じゃない。大成功だ。彼は見事に俺の髪を成敗してくれたのだ。これで人前に出しても恥ずかしくない俺になった。まとまった髪に歓びを感じながらスーパーへ駆け出した。半額で売っていた牛肉コロッケをカゴの中に入れた。

毛量が多すぎて切っても切っても、ヘアカット前のような俺がついにちゃんとした髪型を手に入れた。ふつうの素朴な前髪ありの髪型。馬にだってたてがみがある。俺にだって前髪がある。

いつも彼女から「マーモットに似てる」とか「レッサーパンダかな」とか「いやプレーリードッグか」とか、可愛い小動物扱いされるが、俺は馬年だ。颯爽と人生を駆け抜けるかっこいい馬なんだよと言いたい。

センターパートのときに前髪を試しに下ろして彼女の前に立ったときは「雲みたい」と言われた。風呂上がりで髪がふわふわしていたのだろう。今回はうまくいった。キメ顔をして、彼女の前に立った。「可愛い」と言われた。

このとき、俺は宇宙が見えた。自分で自分のことをジャッジするのは不可能なのだ。

いつもネガティブ思考で生きているけれども、そもそも俺の思考自体、大したものではなかったのだ。考えることは善だと思っていた。

弟に髪を切ってもらっている最中、寒さに震えながら、ずっと考えていた。いつまでも、何もかも、終わらない。つねに満足のいく結果が生まれない。

なぜだ。満足してもすぐに退屈が襲ってくる。どんなに素晴らしい文章が書けても、それは完璧ではない。コミュニケーションもそうだ。「次はこう振る舞おう」と思っても、いとも簡単にその場の空気に飲まれる。あらかじめ話そうと思っていたことも話せない。すべてが空気に流されていって、俺にはコントロールができない。

完璧主義だから、つねにパーフェクトにしようとする。でも、いつも結果は同じ。なんだかしっくりこないことの連続だ。

しかし、もし満足したとしたらどうなるのだろう。満足してしまって、すぐに完璧なことができたら。それはそこですべてが終わってしまう。もう生きていなくてもいいことになる。

終わらない、終わらない。何をやっても終わらない。これに名前をつけた。これが「愛」だ。

生きていくには、永遠に終わらないである必要があるのだ。むず痒い、退屈、諦め、悔恨、許せなさ。このすべてがいつまでも続いていく。何のために。愛に、気付くためなのだろう。起こることすべてが愛なのだ。

俺は今日ポイ活をしようと思って、歩いて一時間かかるところまで行ってきたんだ。途中、休むために公園に立ち寄り、ベンチでメンチカツサンドを食べた。足元に木の棒が落ちていたから、手に取り、地面の砂に何か書こうと思った。なんとなく書いた、それは「愛」という字だった。

日が陰る。先ほどまで晴れていた空はいきなり曇天に支配されている。風が強く吹き、髪型を乱す。寒い、寒い。急ぎ足で帰る。

家に着く。ホッとする。いつもの平々凡々な日常の一コマ。これを人は幸せと呼ぶのか、それとも不幸と呼ぶのか。いずれにせよ、生きている。家族がいる。友人がいる。神様だって、見てくれているだろう。人生はわからないことだらけだ。わからない、わからない。たが、このわからなさが愛なのだとすれば、まだもう少し生きてみるのも面白いのかもしれないと思える。


おわりに

ちなみにこの文章を書き終わり、最近よく使っているMicrosoftのCopilot(生成AI)に校正を頼んだ。細かい点を指摘されたので、その通りに直し、最後に「髪を切って愛に気付いた」というタイトルはどうかと聞いたら、こんな返事がきた。笑っちゃったので採用したいと思う。

私はこのタイトルがとてもインパクトがあって、読者の興味を引くと思います。あなたの記事の内容とも一致しています。ただ、もしもっと具体的にしたいなら、「髪を切って愛に気付いた、俺の奇妙な冬の物語」というように、サブタイトルを付けることもできます。サブタイトルは記事の内容をさらに紹介する役割があります。あなたはどちらのタイトルが好きですか?😊

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