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面談

鬱っぽい、と自分じしんの雰囲気を書くのはおそらく医学的な用語としてはただしくないのだけれど、気分としてとりあえずのフィット感があるので、そのように書く。自分は鬱っぽい。とここで河合隼雄先生に登場してもらおう。「どんなところが調子悪いでんな」それがですね、なんかやる気でないんです。全体的にだるいというか、心が落ち込むとかそういう感じです。「仕事の方はどうなんです」仕事はできていない部分もありますが、評価もされているし、ただ一方で不安な部分もあります「というと」なにか信頼を置く場所がない、自分の場所がない、中途半端な感じをしています「それはなんででしょうなぁ」うーん、他の人との交流があまりない、チームでやっているというより上司と一緒にやっている感じ、それがよくないのかもしれません。前職では結構みんなでやっていた感じがあったり飲みに行ったり、話があったりするので「なるほど」もちろん、仕事のなかでそれをすべて調達する必要はないのかもしれません、一方で「いっぽうで」そう、それがいるかというと、やはりすくない。交友関係が狭い「せまいんですか」せまいというより、いつもつるんでいる感じがない。いつもひとりで、語れない。そう、話す相手がいないという単純なことがらかもしれません。昨日、定期的に行っている接骨院があるんですが、そこの先生と初めて来院したときのことを話していて、どうも接骨院に行ったきっかけの症状は、身体的なものではなく精神的なものだろう、だからこうやって通って話したりするのがいいんだと、じじつ快方しているんですね。「ま、わたしんところに来るのもそういうことかもおまへんな」そうですね、しかしこうやって仮想の対話というのを書くだけでも、精神的には整っていくようなそんな感じがします。「じゃ、まずは友達つくりからかもしれまへんな」そうですね。友達かあ。ただ、内省することなのかもしれません、どちらかといえば。前にも書いたのですけど、書くということをしたいとき、それは調子が悪い、むしろ動かずに書くこと、内省することを身体じしんが求めているような、そんなことを思ったのですが、そういうことかもしれません。「処方せんとしては、また明日も来院してもらう、そういうことになりまんなぁ」なんとか、明日も来ようと思います。ただ、これを読んでいても、今感じている、しゅしゅしゅとこころの中心に重心が行く感じは、残らないんだろうな。

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