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夏の夜の夢|掌編

細切れの断片でしかないあの夜の記憶が、意味をもってつながりをなすまでしばらくかかった。僕はまだ6歳だった。仕方のないことだ。


じめじめと暑苦しい夏の夜だった。

運転席の父は無言でハンドルを握りしめていた。街灯が照らすその横顔は、お面でもはりつけたように固く、血走った目ばかりがぎょろぎょろとせわしなく動いていた。

寝入りばなを叩き起こされた僕は、とにかく不快で、不機嫌だった。出かけるなんてイヤだとだだをこねた。父は何とかなだめすかそうとしたが、6歳児は言うことを聞かなかった。しびれを切らした父は、家の前の、蛾が何羽も舞う自販機で僕の好物のリンゴジュースを買い与えてまで、必死に僕を車に押し込んだ。

押し込まれた僕はといえば、その後間もなく寝入ってしまう。助手席の床に、盛大にジュースをこぼして。

1秒でも惜しかったであろう父に、本当に申し訳なく思う。


リンゴの香りをまとった僕と父は、病院に到着後、すぐ病室に通された。すでに青く冷たくなりつつある母の手に触れても、僕は、そこに現実感を見出すことができなかった。

まさに棺桶のように無機質な面談室で、白衣の主治医と看護師が淡々と語る。父の隣に座った僕は両の目こそ開いていたが、まだ半ば眠っていて、彼らと父の沈鬱なやり取りを、優しい子守歌のようにぼんやりと聞いていた。もちろん、意味など大半が分かるはずもない。

すべてがふわふわと夢の中だった。


何度夜が明けても、母は帰ってこなかった。代わりの小さな写真。それだけが受け入れがたい現実として突き付けられた。

「なんで」と繰り返し父に尋ねた。ひどく残酷な仕打ちだったはずなのに、僕にはそれが分からなかったのだ。ときに怒りながら、ときに涙を流しながら「なんで」と問う僕に、父はいつも同じ表情――困ったような苦笑い――を返した。

父は、涙もいらだちも見せなかった。少なくとも、僕には。

僕は、父の感情を奪ってしまったのではないか。

そう思うと、やるせなさが募った。



「進藤さん」

声をかけられ、身を起こす。見慣れぬ天井。目を何度かしばたたかせるうちに、病院にいたのだと思い出す。待合のソファの座り心地がよくて寝入ってしまった。仕方ない。いきなり帝王切開と言われ、緊張は限界に達していた。

「無事終わりましたよ。おめでとうございます、元気な女の子です。真由美さん、もうすぐ戻られますからね」

看護師は笑顔でそう言うと、疲れた様子も見せず、さっそうと立ち去った。

大きな窓から見える東の空。朝と夜の境界がほんのり青白み、新しい一日の到来を知らせる。今日もまた、一段と暑くなりそうだ。

父はもう起きているだろう。携帯を引っ張り出し、実家の番号を打つ。


父さん――あなたは喜んでくれるだろうか。

震える親指とにじむ視界が、なんとも、もどかしかった。