プレゼンテーション1

語学は「役に立つ」のか「意義がある」のか。

機能としての語学

いま、山口周さんの「NEWTYPE」を読んでいます。

その中の一節で、

現在の年長者が若者だった1980年以前の時代は「モノ」が希少で「意味」が充足している時代でした。一方現代という時代は「モノ」が過剰で「イミ」が希少になってます。
つまり、いつの時代にあっても、その時代の「若者」というのは、常に「その時代に足りないもの」についてハングリーなだけだということです。
モノが飽和し、モノの価値が中長期的な低落傾向にある時代だからこそ、これからは「役に立つモノ」を生み出せる組織や個人ではなく、「意味」や「ストーリー」を生み出すことができるNEWTYPEに、高い報酬が支払われる時代がやってきているということです。

とあります。

語学の機能としての側面、それは例えば中国語が話せれば中国を対象としてモノを売れる、というニーズを満たします。多くのビジネスマンが英語を勉強しているのはそのためです。TOEICの高得点を目指している。

一方で、その機能は自動翻訳技術に代替されるのです、やがて。いつでしょうか知りませんが、間もないでしょう。意志疎通のツールとして言語の機能を身に付けるための語学は、未来がない。今は価値がありますよ。私も仕事で英語を使っています。しかし未来はこの価値はなくなります。「遅かれ早かれ」というやつです。sooner or later...

つまり、「役に立つ」だろうという動機で語学をするのは将来性がないということです。

語学に意義を見出せるか

私は「異文化理解」という意義に語学の可能性を見出しています。学びというのは「自分が知らない事」に対面するということです。つまり自分が不得手な領域に乗り込むという事。そこで、「芸歴何年」という経験をもとにマウントするのではなく、むしろ謙虚にフラットに自身の無知と向き合う。学習とは、自身の無知を解決しようとし続ける行為といえます。私はその様な謙虚な姿勢に惹かれますし、学ぶという行為はその謙虚さを身に付ける作法の一つだといえます。

例えば、語学に関しては自分の知らない言語を学ぶわけです。例えば中国語を学び始めた当初、私は中国について何も知らないわけです。いや、正確には、中国に対する情報はたくさんありました。テレビやツイッターから流れてくる中国に関する情報はたくさんありました。しかし、それらに実感はありません。"That's what people say."に過ぎません。学ぶときにはいったんそれらをリセットし、自身の無知を受け入れ、先生から学んでいきます。言語というのは世界の切り取り方の一つの方法です。中国語学習を通して、中国文化の世界の見方が断片的に見えてきます。中国語が少しづつ話せるようになると、中国人の友達ができ始めコミュニケーションをとるようになります。そうすると初めて中国人からの一次情報に手が届くようになる。驚くほど日本人と似た考えを持っているし、驚くほどむしろ日本人よりも自由な発想を持っているし、驚くほど友人に対して情熱を持っているし、驚くほど中国料理が安くて美味しいということを知るようになります。そうそう、旅行にも行けるようになります。現地の空気を知って、人々の生活を肌で感じて。そして、改めて中国史なんかを学びなおしたりして。語学を通して、私は確かな実感として隣国の異文化を理解してきました。

これは役に立ちません。でも意義がある。そして私はそれに惹かれる。孤立主義が広がりつつある2019年の世界ですが、それでもやはり、それなら一層、異文化を理解して仲良くする、戦争をしなくてもいいような土壌をつくる、という意義が映えてきます。映えてきます。

語学の継続

前述したように「役立つから」という理由で語学は継続できないです。あまりにも未来がないから。私だったらやりません。もし英語ができたら超短期的にとても儲かるのならやりますけどね。しかし、もはやそうではないでしょう。

ではどうしたら語学を継続できるのかといえば、語学自体に意義を見出すことです。意義というのは正解も不正解もありません。個人個別のものです。だから、自分で考えるしかありません。また、「語学の継続」に大した価値があるわけでもありません。つまるところ、「意義」を見出すか否か、という話です。



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