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「手伝わなくていいよ」批判序説

どこまで手伝うか難しい

 保育実習に行った学生さんから,「どこまで手伝ってどのくらい見守るかの見極めが難しい」という話をよく聞く。
 実際,実習生が入ると普段自分でできることを「手伝って」という子どもは必ずいるし,言われるままに手伝っていると「その子自分でできるから手伝わなくていいよ」と実習先の先生から言われたりするし,実習生にとってはそこの判断は「どうしたらいいの?!」という,結構切実な問題なのだと思う。
 ただ,実習生は,子どもたちがこれまでどんなふうに育ってきたのかを見ていない。その実習生に,ほとんど初対面といっていい子どもの身辺自立状況を見極めるなどということは,土台無理な話なのだ。

「手伝わなくていいよ」の含意

 実習先の先生が、わかっていない実習生に伝えるために「手伝わなくていいよ」と言うことに対して,私はどうも違和感を感じる。「手伝わなくていいよ」というとき,そこに子どもの気持ちを受け止める視点というのはあるのだろうか。
 もちろん,「手伝わなくていい」と言われたからといって,「手伝って」と言ってきた子どもに対して実習生が「手伝いません」と冷たく拒絶するなどということはないだろう。「自分でやってごらん」と優しく促したりすることがほとんどのはずだ。多くの学生さんたちは,そこでいきなり子どもを突き放したりはせず,子どもの気持ちを引き立てながら,自分でやる方向に誘導しようとするだろう。
 私が引っかかるのは,「手伝わなくていいよ」のあとに「ただ甘えているだけだから」というような言葉が続くのが容易に想像がつくと感じることだ。
 子どもは,自分でできることを手伝ってもらってはいけないのか。甘えさせてくれそうな大人に甘えることは許されないのか。
 そんなことはないだろう,と私は思うのだ。

甘えられる機会だから甘える

 実際には,現場の保育者たちは,そんなに子どもを甘え放題に甘えさせたりはしていない。そんなことをしていたら仕事にならない。子どもたちもわきまえていて,なじみの保育者と過ごしている日常では自分でできることは自分でやろうとすることが多い。
 だが,実習生が来る,というのは非日常だ。子どもというのはもともと甘えたがりで,他者に受容されているという感覚を常に求めている。甘えられるかもしれない千載一遇のチャンスに,甘えて何が悪いのか。
 そう思うとつい,実習生に甘えるのをとめる必要などないじゃないか,甘えさせればいいじゃないか,実習生も手伝ってやっていいじゃないか,と言ってしまいたくなる。

甘える側の気持ち

 以前ある本で,子どもに対しては,受容する方向と,自立や発達を促す方向と,その両方の関わりが必要なのだ,ということを読んだ記憶がある。自分のことを振り返っても,学生さんや現場の保育者とのやりとりを思い返しても,いろいろな場面でどうも自立を求めるわりに受容が弱くなる傾向があるように思える。この「手伝わなくていいよ」もその一例だろう。
 普段は自分で自分のことをやっている子どもでも,甘えたくなるときはあるに決まっている。たまにはその気持ちを受け入れて,肯定的に受け止めてやったっていいじゃないか。
 ましてや,保育者は子どもの家庭状況までも知る立場にある。この子は弟妹がまだ小さくて家では十分甘える機会がないのかもしれない,今は少し甘えにつきあってやろうか,というようなことだって判断できるはずだ。ただ「自分でできるんだから甘えないで自分でやりなさい」と言うだけだったら,生身の血の通った人間である必要はない。

 というのは極論かなあ,と思いながら,学生さんには,「まあ実習先の先生に怒られない程度に甘えさせてやればいいよ」と唆して学生さんをかえって困らせる,不良教員の私である。

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