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黄信号の通りについて

青信号の歩行者用横断歩道を渡っているとき、自分の後ろを軽自動車がけっこうな速さで走り抜けて行ったことがある。
中央分離帯があるわりに車線が少なく道幅も狭い道路で、後背すれすれでもぶつかったわけでもないが、なんにも考えずに歩いていたので少し歩くのが遅ければ、おそらく吹っ飛ばされていた。
あのとき轢かれていたかもしれないと言うよりかはあのとき一度死んだとはっきり思った。

それからずっと、うっかり転んで倒れたその瞬間に、スピードを緩めないまま走る自動車のタイヤがちょうど私の首を轢いてしまう想像でしか私は死ななかった。
それを正常性バイアスと受け取りながら今までを過ごしている。自分はそうならない、ではなく、たぶんこうなるだろうからどうなろうにも仕方がない。そういう意味で。

なんら考えちゃいないのだ。
他責願望を抱えてこのまま上記の固定観念に縛られるのか、完全に覆されないとはいかないまでも少しばかりは健全になるのか。
選べない人間の末路のことばかり考えている。
私は私の選択の上でいわゆる人生を続けているわけだが、誰の影響も受けず、誰の言葉も受け取らずにいたことなんてほぼない。
誰かが選んだものの中で、自ら選んだ気になっているだけだと、ふとした瞬間に思う。

思い込みがそのまま持論の強化になればいい。
しかし、そこに絡まるバイアスを極力排除しようとするためには方向性や視点の違うインプットと訓練が必要だ。
では、そのための努力をしているか?
していない。過去の貯金でやりくりして、そこの組成で表面を整えているだけなんじゃないかと日々思う。 
聞きかじったあれやこれを、自分の言葉として表出する責任を負うことができない。


あの道路、あの車、時間帯、スピード、その後のこと。
危機管理能力はこと身体においては働かなかった。
いつでもああなる、いつでもこうなる。
それ以外、何も考えないでいる。
ここに私の責任はないからだ。

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