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桶狭間の戦いを深ぼってみたら「情報こそ価値」ということが解った

何かひとつ歴史イベントを細かく調べたら得るものがあるかもしれないと思って織田信長と今川義元の戦い「桶狭間の戦い」について深ぼって調べてみた。僕の解釈で書いているので誤っているところもあるかもしれない。あくまで僕のまとめとして残しておく。

前提として知っておくと良い当時の慣習

  • 当時、合戦で成果を上げた家臣には報酬とて土地の支配権を与えた。これを知行という。

  • 相手大将の首を討ち取った者、一番槍(一番初めに戦うこと)の者が高く評価された。

  • どのくらい評価・称賛しているかを「感状」という文書に書いていた。

僕が思ってた「桶狭間の戦い」

  • 小国の織田信長が大国の当主 今川義元を打ち取った。今川が油断しているところを急襲した三大奇襲戦の一つ。信長が地位を築くきっかけになった戦い。

  • 信長軍3000人、今川軍25000人とされているが諸説あり。いずれにしても軍事力には大きな差があった。

  • 桶狭間に行く前、織田信長は能を舞う。「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」。

  • 今川軍が、桶狭間で宴会していたところ、雨が降っている崖をかけ下り本陣に突撃して奇跡的な勝利を上げる

  • 今川、北条、武田の三国同盟が破綻する。

  • 今川家の弱体化をみて松平家( 後の徳川家 )が独立する。

調べて解ったこと

  • 桶狭間の戦いについて述べた歴史書は2つある。「甫庵信長記(ほあんしんちょうき)」と「信長公記(しんちょうこうき)」。前者は創作が入っていて読み物としては面白いが歴史書としての価値は低い。後者の信長公記のほうが信憑性が高いと評価されている。

  • 迂回して奇襲したという逸話は軍記物「甫庵信長記」に書かれていることなので実は信ぴょう性が低く現在では否定的な見解が多い。なので崖を駆け下りたというのは創作。結局、信長軍がなぜ勝てたのかは解っていない。

  • 1560年5月19日午前3時 松平元康( 後の徳川家康 )が織田軍の砦を攻撃。この知らせを聞いた信長は能を踊り身支度を整え午前8時に熱田神社で勝利祈願。10時ごろ軍勢3000人を集め桶狭間に向かう。正午 砦は陥落。この知らせを聞いた今川義元は桶狭間で勝利の宴をおこなった。13時 視界を妨げるほどの豪雨の中、桶狭間の戦いが始まる。

  • 今川義元を討ち取ったのは毛利良勝。一番槍は服部一忠。今川軍の情報収集をしていたのが簗田政綱(やつだ まさつな)。

  • 桶狭間の戦いの感状が残っていない。なので誰がどれくらい報酬をもらったかはわからない。ただし簗田政綱(やつだ まさつな)が知行を与えられたので結果的に同氏が一番評価されていることになる。これは、信長が情報の重要性に対して評価したとされる

  • 簗田政綱がその後どうなったかはよく解っていない。

  • 毛利良勝はその後も活躍したが、本能寺の変で信長とともに討死。

  • 「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」は、平敦盛とう人物書いた歌。信長の言葉ではなかった。

まとめ・感想

崖を下って本陣に突入する話が創作だったことに驚いた。そして信憑性のある情報が「信長公記」ひとつしか無く詳細がわからないということに驚いた。これ以上の情報は出てこないだろうから永遠に分からないのだろう。逆にそこが想像を掻き立てて面白いと思った。

大将を討ち取った毛利氏より、情報を持ってきた簗田氏が評価されたというエピソード。情報こそが価値としていて信長の革新性を表現していてかっこいい。現在でも情報こそ価値だ。

ひとつのことに深ぼって調べてみるのはなかなかおもしろい。今後もやってみよう。

文献


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