見出し画像

yumenoshima dreamin'~ゴジラと原子力~  ニコ・タナヴィッツ

 夢の島がある。そこはその名前から思い浮かべられるような桃源郷でもユートピアでもなく、目が覚めると跡形なく消えてしまうものでもない。
 それは東京都江東区にある。住所としても存在し、それを記してハガキをポストに入れればちゃんと配達される。
 東京湾にある多くの埋め立て地の一つがそれだ。戦後間もない頃、遊園地の開発計画があったことから「夢の島」とマスコミが呼ぶようになり、それが正式な地名となった。
とはいえ、1960年代から70年代にかけてのそこを夢の島と呼ぶにはあまりに皮肉が効きすぎているだろう。急増した都内のゴミの処分場となったからだ。そこで発生した大量のハエは近隣を襲い、江東区砂町の小学校ではハエたたきでそれを退治するのが日課だったという。その悪臭が風に乗り町に立ち込めることもしばしばだったそうだ。高度経済成長、華やかりしき頃、花の都大東京、東京という都市の見た夢。夢の島はゴミで作られた。あるいは、そのゴミの多くはかつて誰かの夢だったものなのかもしれない。あるいは、夢とは常に捨て去られるものなのかもしれない。
 1967年に埋め立て完了、それからその土地の整備が始まり、11年後の1978年には東京都立夢の島公園が開園する。その後も整備が進み、スポーツ施設や熱帯植物園が建設されるなど、「往時」の面影は消え去り、今ではむしろ、そこは緑多い都会の憩いの場所といった趣だ。すべては悪い夢だったかのように。
 その一角に、ひとつの建物がある。草木の充満する小道を抜けていくとそれは姿を現す。降り注ぐ枝越しに見る鋭い三角形のファサードは、一瞬それが礼拝堂か何かの宗教施設ではないかと錯覚させる厳かさを持っている。どっしりとそこに座り込み、微動だにしない落ち着きを持っている。
 東京都立第五福竜丸展示館、というのがその建造物の名称である。
 第五福竜丸というのは船の名である。その船は、1947年と言うから、今から70年以上も前にカツオ漁船第七事代丸として進水し、のちにマグロ漁船に改造、その際に名前も第五福竜丸と改められた。それはどこにでもある、ごくありふれた船である。遠く離れた海でマグロを捕り、それを持ち帰る。あの大戦からの復興、そして経済成長へと向かう日本の食卓を豊かにする。そうして老朽化し、廃船となる。名も無い船の一隻として。もしかしたら、それこそが幸福というものなのかもしれない。
 そうはならなかった。第五福竜丸は不幸にも有名になってしまったのだ。
 事件は1954年3月1日未明に起きた。その時、第五福竜丸はマーシャル諸島近海で操業していた。太平洋のど真ん中である。見渡す限り海だったに違いない。それは船員たちにはごくありふれた日常の景色であったのかもしれないが、そうした環境にない者、たとえば僕にとっては想像を絶するものである。最寄りの陸地すらも見えない、見渡す限りの大海原。そこで感じるのはきっと、自由と孤独のないまぜになったものに違いない。人生の喧騒から遠く離れたことによる解放と不安。陳腐な想像である。想像を絶するものを前に想像力は陳腐化する。そんな我々の日常から遠く離れたところで、日常を満たすための作業が行われている。日常と言う食卓に並ぶマグロが獲られている。我々の日常を下支えするのはそうした我々の想像の及ばないあれこれなのだ。おそらく、それは形を変えたとしても、現代でも変わらないことなのだろう。
 そこから160km離れた場所で、実験が行われようとしていた。現実的な実験である。物理学者たちの頭の中、想像力と計算によって生まれたそれは、現実的な開発、現実的な裁可、現実的な人々の働きを経て、現実的な核分裂、核融合を起こし、現実的な爆発をした。想像を絶する破壊力で。
 アメリカによる水爆実験、キャッスル作戦ブラボー実験である。その出力は開発者たちの想像していたものの三倍近く、広島型原爆の換算すると1000個分の破壊力となった。実験を行った島は消え去り、残ったのは深さ120m、1.8kmのクレーターだけだった。
 当然、設定されていた危険水域では不十分で、その外にいたはずの人々の上に死の灰が降り、2万人以上が被ばくする事態となった。
 当時、アメリカは焦っていた。理由はアメリカと世界を二分するソビエト社会主義共和国連邦の存在だ。
 この表現、「二分する」、もしも本当にこの地球という球体を半分に分け、それぞれの半球にそれぞれの陣営を押し込めれば、もう少しましな世界になっていただろうか。いや、そうして隔離されていたとしても、どちらかがどちらかに攻め込んだかもしれない。これは無駄な想像だ。そんな状況、ケーキを切り分けるように地球を切り分けることなどできない。我々人類にできたのは、核兵器を使い、この地球上の生物を根絶やしにすることでしかないのだ。
 このふたつの大国、アメリカ合衆国とソビエト連邦は常にお互いを意識し、争っていた。外交でも、経済でも、宇宙開発でも、オリンピックでも、チェスでも、とにかくありとあらゆることで争っていた。そしてもちろん核開発でも。より強力な核兵器を持つことが自国の安全を保障するという信念のもと、両国は互いに核開発を行った。抜きつ抜かれつ、デッドヒートの行きつく先は死、それも現実的な死であるにもかかわらず。
 前年の1953年8月、ソビエトが水爆実験に成功したと発表(これはのちに水爆ではなく強化原爆のようなものであったことがわかるが、これは些細な違いに過ぎない。それの仕様がいかなるものであれ、大きな破壊力を持ち多くの人々の命を奪いうること、そして環境に致命的な悪影響を及ぼすことに変わりはない)、その前年の1952年にアメリカは水爆実験自体には成功していたが、それは大規模な付属機器のため70トンを超える重量を持つという、とても実戦に配備できるものではなかったのだ。アメリカは焦った。ライバルに後塵を拝することはすなわち死を意味する。それは強迫観念であろう。人々の頭の中で生み出される危機。しかしながら、それこそが人間を支配し、歴史を構成していくのだ。
 そうして、小型軽量化された、「使える」水爆開発の成果を示すためのキャッスル作戦が行われることとなる。それは示されなければならない。脅威でなければ意味が無いのだ。それは詳しく記録される。巨人たちが大手を振って花火を打ち上げていた時代。身の毛もよだつ野蛮な時代のことだ。動画サイトで「ブラボー実験」と検索すれば、今でもその映像を見ることができる。画面がまばゆい閃光に満たされる。衝撃波が海をすさまじい速度で横切り、ヤシの木をなぎ倒す。白い雲の海から立ち上るオレンジ色のきのこ雲は、語弊を恐れずに言えば神々しさすら覚える。ソドムとゴモラを焼き払った天の火か、『ラーマヤーナ』のインドラの矢か、ラピュタの雷か。トリニティ実験での最初の原爆実験の成功を目にした時、開発責任者であったロバート・オッペンハイマーは古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節から引用し「我は死なり、世界の破壊者なり」と呟いたという。
 しかしながら、その光景が神を思わせたとしても、人類がその真似事をすれば天罰が下ることはイカロスやバベルの人々を例に挙げるまでもなく自明の事ではあるまいか。
 では、下った罰とは何だったのだろうか?アメリカの不適切な危険水域設定は近海で操業していた数百隻の船舶とマーシャル諸島の人々の上に放射性物質、いわゆる死の灰を降らせた。多くの人々が放射線障害に苦しむことになる。彼らに神罰が下るべきだっただろうか?彼らは無辜の人々である。もちろん、それぞれがそれぞれに身の内にそれぞれの悪を抱えていたかもしれない。人間とはそういうものだ。しかし、それに対する報いとしては、それはあまりに理不尽である。たとえ神が本質的に理不尽なものであったとしても。
 その場に居合わせただけの、第五福竜丸の不幸な乗組員23名の上に放射性物質の降り注いだ。それはまるで雪の降るようだったという。目に入ったり、肌に触れると焼けるような痛みをもたらしたという。そんな中、彼らは約4,5時間作業を行い、人体及び船体の十分な洗浄も行わないまま、2週間かけて焼津漁港に帰港することになる。救難信号を発しなかったのは、それを捉えたアメリカ軍に撃沈されることを恐れたからだという説まである。
 彼らは放射線による火傷、頭痛、嘔吐、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛など急性放射線症状を呈し、「急性放射線症」と診断され、23人のうちの一人、久保山愛吉無線長(当時40歳)は同年9月に死亡している。
 これらの出来事が様々な方面に影響を及ぼすことになるのだが、それはひとまず置いて先にこの船、第五福竜丸がそれからどのような歩み(船に歩みと言うのも妙だが)を経て、現在夢の島に展示されるに至ったかを述べてしまおう。
 被爆から2週間経った3月14日に焼津港に帰った第五福竜丸は検査を受け、人家から離れた場所に鉄条網を張られた状態で係留される。その後、文部省(現:文部科学省)が買い上げ、8月には東京水産大学(現:東京海洋大学)の品川岸壁に移され、そこでさらに検査、除染作業、そして改造をされ、東京水産大学の練習船はやぶさ丸と生まれ変わる。はやぶさ丸は1967年まで学生たちの訓練に使われたのち、老朽化を理由に廃船、夢の島の隣の十五号埋め立て地に打ち捨てられる。そこで解体を待つのみという状況だったが、それを都庁職員が発見、保存運動が高まり、1976年、夢の島公園内に第五福竜丸展示館が建設され、そこで永久展示されることとなった。
 第五福竜丸展示館の入り口を抜けると、もうすぐそこにそれは鎮座している。いかなる前置きも無いまま、でんとそこにある。船は大きい。我々の立つ地面と同一平面上に設置されたそれは、思いの外大きい。それはそれを覆う建物を満たすようにそこにある。少し窮屈そうですらある。身じろぎでもすれば、建物にぶつかり崩してしまいそうだ。とはいえ、その上に男たちが23人寝起きし、働くとなると、そしてマグロを獲り、そこで保管するとなると、さらに言えばそれに大海原で荒波にもまれることを考えると、いささか心細い感情が芽生える。大海の中にあっては、一葉の木の葉と同じではあるまいか。
 船を取り囲むように、その被爆の経緯、そして船員たちのその後、世界の反核運動の歩みについての資料が展示されている。ブラボー実験のきのこ雲、船員たちの生々しい姿、ゴミ捨て場に打ち捨てられた船の写真。そこには、瓶詰めにされた死の灰もある。あの夜、雪のように降り積もったそれは、雪ではなく、溶けることなく、そこにある。
 その夜、それは間違いなく起こったのだ。水素爆弾は炸裂し、死の灰が降った。第五福竜丸はそれを浴びた。それは教科書の中や、物語の中の、その中だけの出来事ではない。現実の出来事としてそれは起こった。それはその証拠なのだ。
 
 この事件の影響として、日本国内では反核運動が高まることになる。ただでさえ世界で唯一の被爆国である日本、しかもその出来事はそれよりほんの9年前に起きたことなのだ。ヒロシマ、ナガサキの傷はまだ生々しく、血を流していた。そこに第三の放射線汚染が起きたのだ。東京都杉並区では女性たちが立ち上がり、5月には水爆禁止署名運動杉並協議会が結成され、この運動は瞬く間に全国に広がり、8月には原水爆禁止署名運動全国協議会が生れている。また、翌1955年には原水爆禁止日本協議会が結成、国内での反核運動は高まっていく。
 環境への被害も大きかった。実験の行われたビキニ環礁の住民たちは移住を余儀なくされ、1998年にIAEAの行った報告でも、本環礁に定住し、そこで得られる食料を摂ると、年間15mSvに達すると推定され「永住には適さない」と結論づけている。人々は住まいを奪われ、それは戻らない。サンゴ礁に対する被害も甚大で、2008年時点でビキニ環礁面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅したとの調査結果が出ている。また、実験によって起きた地殻変動はハイアイアイ群島を沈め、そこにしか生息しなかった鼻を使って歩行するという珍しい哺乳類、鼻行類が絶滅するという事態も招いている。
 そして、この水爆実験は目覚めさせてはならないものを目覚めさせてしまうのだ。近海の海底洞窟に住んでいた200万年前の巨大生物ゴジラが、水爆実験の影響で住処を追われることとなるのである。それは北上し、日本を襲い、人々を恐怖のどん底に突き落とすことになるのだ。
 もちろん、ゴジラは(そして鼻行類も)現実ではない。想像上の、虚構の出来事である。「ゴジラ」は1954年、第五福竜丸の被害にあった年の11月に公開され、空前の大ヒットを記録することになる。製作した東宝は、当時経営状態が悪化していたが、このヒットで立て直したという。これは現実の出来事。現実的な金銭はあるいは様々な人を救ったかもしれない。ゴジラは映画の中の出来事であり、想像の産物である。しかしながら、それは切実な想像である。それは原水爆の、放射能の恐怖が具現化した姿なのだ。ゴジラは、街を襲い、破壊する。それは怒っているのだ。何に?水爆実験にである。それは原水爆によって脅かされ続けていた日本人の怒りの姿だった。虚構の中、人々はそれと戦い、傷付き、あるいは絶望しながら、最終的にはオキシジェン・デストロイヤーという科学の力でゴジラは殺され、海底に沈められ、鎮められることとなる。
 しかし、東宝としてはこれほどの大ヒット作を一本だけで終わらせる手はない。現実的な金銭は現実的な人々を動かすことになる。シリーズ化が行われ、1955年には2作目「ゴジラの逆襲」が公開、この映画ではアンギラスという怪獣が現れ、ゴジラと戦うことになる。この怪獣もまた水爆実験によって蘇ったという設定になっているのだが、これ以降ゴジラシリーズはゴジラが他の怪獣と対決する娯楽映画になり、第5作目「三大怪獣 地球最大の決戦」以降では人類の脅威という側面はまったく無くなり、むしろ正義のヒーローとして扱われるようになる。
 時間を少し巻き戻そう。1954年、第五福竜丸が死の灰を浴び、ゴジラが目覚めた年だ。実はこの年の3月(第五福竜丸の事件の月だ)、原子力研究開発予算が国会に提出され、これが日本の原子力発電の起点となっているのだ。核の脅威にさらされたその同じ年、この国は核の力の利用を始めている。その翌年1955年には原子力基本法が成立、さらにその翌年の1956年には原子力委員会が設置され、初代の委員長には読売新聞社社主正力松太郎が就任する。正力は読売新聞をはじめ、系列メディアを駆使し日本の原子力政策に大きな影響力を及ぼすことになる。そして、1963年に東海村で日本で初めての原子力発電がおこなわれることになるのだ。「三大怪獣 地球最大の決戦」の公開は1964年である。正義のヒーローとしてのゴジラの現れた年である。もちろん、これは偶然の符合であるかもしれない。
 かくして、日本は核の力で電気を作り、ゴジラは人々のヒーローになった。ちなみに1975年公開の15作目「メカゴジラの逆襲」までヒーロー路線を続けるが観客動員数は最低を記録し、これで一度シリーズが終了することになる。1984年には16作目「ゴジラ」で、また人類の敵としてのゴジラが日本を襲うが、それ以降は毎回ゲスト怪獣が登場し、正義のヒーローとしてではないが、ゴジラがそれと戦うという映画が作られていく。
 1963年に産声を上げた日本の原子力発電は、事故やトラブルがありながらも、その発電量は着実に増加し、高度経済成長で電力需要が増したこの国を支え、2000年代には全発電量の30%が原子力によって作り出されるまでに至る。それは間違いなくこの国の発展の礎となっていた。
 その間に、世界を二分していたアメリカ合衆国とソビエト連邦、二匹の巨大怪獣は、1989年のマルタ会談で冷戦終結を宣言、その2年後にはソビエト連邦自体が崩壊するが、アメリカ、ロシアを筆頭に、イギリス、フランス、中国、そしてインド、パキスタン、北朝鮮も核兵器の保持を宣言した。ヒロシマ、ナガサキ、そして第五福竜丸の教訓はどこへやら、依然、地球上には人類の文明を脅かすに十分な量の核兵器が存在している。
 原子力発電の方はといえば、1979年にアメリカではスリーマイル島原発事故が、1986年にはソビエト連邦でチェルノブイリ原発事故が発生した。前代未聞の重大事故は今でも周辺地域が立ち入り禁止にされるほどの甚大な被害を及ぼした。
 そして、2011年3月11日が来る。東日本大震災が発生、それに伴い発生した大津波は東京電力福島第一原発を襲い、その結果、全電源喪失、制御不能になった原子炉はメルトダウン、爆発を起こし、放射性物質が広範囲にばらまかれた。その後、日本国内の原発はその安全性の確証が持てるまですべて停止されることになる。

 こうして、フクシマ以後になってみると、我々は幻想の中にいたのではあるまいか、という煩悶が頭をもたげてくる。我々はゴジラを、核の力を飼いならしたという幻想の中にいたのではあるまいか。そして残念ながら、幻想はそれが破れて初めて幻想であったことを知らせるのだ。ゴジラは鎮められてなどいないし、飼いならされてなどいない。マスコミがいかにその安全性を吹聴したとしても、原子力発電には、核の力を使うには大きなリスクを伴うのだ。現実的なリスクが。もちろん、リスクを取るという選択肢もあるだろう。それを否定するつもりはない。日本の原子力政策を推進した人々はそれを進んで取るべきだと判断したのだろう。それは悪意や利己心から出たものではないのだろうと思う。国の発展に寄与したいという、純粋な思いからそれは行われたのだと信じたい。あるいは、もしかしたらそれは敗戦のトラウマだったのではあるまいか。戦中に青年期を過ごした人たちの中には、資源の乏しさがこの国を戦争に駆り立て、資源の乏しさがこの国を敗戦に追いやり、資源に乏しいこの国を救うのは核の力しかないという思いがあったのではあるまいか。しかしながら、どんなに崇高な思いからであったとしても、それの行きついた先は現実的な痛みだった。依然生まれ育った、住み慣れた場所から追いやられた人々がいるのだ。それはフクシマに限らず、チェルノブイリでも、ビキニ環礁でもだ。
 広島の原爆死没者慰霊碑には「過ちは繰り返しませぬから」と刻まれている。主語が無い、という批判がある。気持ちはわかる。広島に原爆を投下したのはアメリカだ。それは紛れもない事実である。悔い改めるべきはアメリカだ、と指弾することもできる。アメリカでは、原爆の投下は仕方のないことだった、それによって終戦が早まり、多くの人の命が救われたと考える人が大勢であるという。2014年に公開されたハリウッド版「ゴジラ」では、あの水爆実験はゴジラを殺すためだったということになっている。もしかしたら、アメリカはまだゴジラをペットにできるという幻想の中にいるのかもしれない(物語はアメリカがゴジラたち怪獣に脅かされる展開をしていくのだから、製作者たちはその脅威を理解しつくしていたに違いないが)。そう考えると、過ちを繰り返さないと誓うべきはアメリカだと言えそうにも思う。実際、アメリカは今年2月にも臨界前核実験を実施しているのだ。しかし、本当にその誓いをアメリカだけに押し付けることを、慰撫される霊たちは望むだろうか?被害者であるのは、あの夏、あの閃光に焼かれ、黒い雨に打たれ、苦しんだ人々だけなのだ。あるいは、死の灰に曝され死んだ久保山愛吉だけなのであり、住み慣れた土地を追われたビキニ環礁の、チェルノブイリの、フクシマの人々だけなのだ。誰もが加害者、それが言いすぎだとすればその共犯者でありうる。もちろん、核兵器と原子力発電を同列に語ることは間違っているだろう。かたや人を傷つけるものであるが、もう一方は人々に利益をもたらさんとするものであるのだ。しかしながら、その間違いを犯したとしても、核の力を使うことについて考えてみるべきではないだろうか。第五福竜丸の上に降り注いだ死の灰は、チェルノブイリでも、福島でも同じように降ったのだ。核の力には善意も悪意も無い。どんな動機や原因からであったとしても、放射性物質はかまわず人体に悪影響を及ぼすことだろう。少なくとも、その力の恐ろしさを忘れた瞬間が、加害者への、共犯者への道の第一歩になるに違いない。あの誓いは人類全体の誓いである。いかなるものであれ、過ちは二度と繰り返してはならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?