見出し画像

【今聴いてくれ】 スピッツ 〜メランコリアに靡かれて〜       

欲望と悲しみの連続こそが若さであるのかもしれない、そう言ってくれたのはスピッツだった。この世界にはなんの希望も慈悲もない、美しすぎるクニには居場所なんてないのだといつでも悲しみと怒りに満ちて世界に中指を立ててくれるのがスピッツだった。野生的で官能的で欲望にまみれたセックスにだけ悦びと救いを見出せるのだと歌うのがスピッツだった。

自分が歌を作るときのテーマは「セックスと死」であると草野さん本人がインタビューで話していた通り、彼らの曲では常に退廃的な世界から除け者にされたものとして抱く孤独感と厭世的な見方がありながら、そんな世界で君という存在を見つけたこと、抜け出すことなど自分が到底許してくれないような快楽的で甘美的な生活が劇薬のようにそこに現れる。この強烈な彼岸の匂いとドリーミーで俗的な性愛の入り混じる世界観こそ、彼らの音楽が若者の心を許してくれる最大の所以であると思う。

世界がどうしようもないものになってしまったと気付かされる2020年代。幸か不幸かそんな現代に生きる私たち若者の感情は彼らの作品に力強く呼応するのではないだろうか。だからこそ”今”を生きる若者に彼らの作品(初期3作)を味わってほしいのだ。しかし、ここで触れるのは彼らの膨大なディスコグラフィのほんの僅かである「スピッツ」「名前をつけてやる」「惑星のかけら」のいわゆる初期の3作品に収録されている楽曲だけである。なぜならこの3作品がここでいう彼らの退廃的で官能的な美しさを最も味わえると思うからだ。


1. スピッツ

1991年リリースのファーストアルバム。ビートパンクやパワーポップ、フォークなど様々なロック音楽を参照しながらも、ほとんどの楽曲は通底して前のめりなビートで構成されているのがとにかく軽快で心地よい。そんな軽快なビートに乗せられるメロディと歌詞の要素が常に新鮮な感覚をリスナーに与える一枚。

タンポポ

アルバムの7曲目の楽曲。微睡むような掴みどころのないギターの音と幼さを覚えるような呂律の気怠いボーカルが印象的なナンバー。草野さんの歌がスピッツの楽曲に少年らしさや未熟さ、中性的な印象をもたらしていることがよくわかる楽曲の一つとも言えるだろう。中盤のギターソロも、個人的に聞くたびに拳を掲げてしまう。

僕らが隣り合うこの世界は今も
けむたくて中には入れない
山づみのガラクタと生ゴミの上で
太陽は黄ばんでいた

この初めの数行だけで自分が世界に対して感じている孤独感と疎外感が見れる。
世界をけむたいものだと呼ぶところやその中にあるものはあくまで生ゴミやガラクタであるとその腐敗した世界はどこまで行っても変わってくれる希望はないと呟く。それでも走り続ける世界や社会から一瞥すらされず踏み潰されるタンポポに自分を投影する。そんな中で出会った君ですら、永遠のものではないと知ってしまう。いっそそんな所から逃げ出そうとすることすら叶わない望みであるのだ。だからこそせめて君だけはここにいてほしいと歌う。
このように、楽曲自体の音色はとめどなく解放的で微睡むようなのに対し、詞の内容はどこまでも閉塞感に満ち絶望とすらもとれるこの矛盾(それに満ち溢れた時間こそが思春期であることも想起させる)を一つの楽曲内に閉じ込めてしまえるのがスピッツというバンドの素晴らしさなのだ。

死神の岬へ

アルバムの8曲目の楽曲。アルバムの中でも特に軽快で高揚感とともに走り出してしまうような前ノリのビートで始まる。この曲はこの時期の彼らのディスコグラフィーの中でも特に強烈に死を想起させるような詞が続き、聞き手にある種の不安すら感じさせるほどである。しかしそのメタファーとして使われる一つ一つの言葉の甘さたるや、メルヘンでどこか美しいとも思うような状況がありありと見えてくる。しかし、そんな一見美しい愛と希望に満たされた世界にはもう別れを告げてしまおうとする二人がいるのだ。明らかにこれから死にに行くであろう二人の目に映る世界を記していく。

そこで二人は見た
風に揺れる稲穂を見た
朽ち果てた廃屋を見た
いくつもの抜け道を見た
年老いたノラ犬を見た
ガードレールのキズを見た
消えていく街灯を見た
いくつもの抜け道を見た

二人が見たものはどこまでも厭世的でデカダン的なものばかり。ガードレールのキズなんてのも事故をよぎらせたり何かを防ぎ守るものが壊れそうなほど傷ついている、それが社会が破綻していることをも示唆しているのかもしれない。年老いたノラ犬は誰にも飼い慣らされることがないまま一人でに時間を過ごしてきたことからある社会に迎合できず孤独を感じている自身の姿をそこに見ているのかもしれない。そして、何度も登場するいくつもの抜け道とはこれこそが今生きる世界からの逃避、すなわち死という選択を意味していると考えられる。
世界のさまざまな情景を次々と見て行けばいくほどにそこに見えてくる選択は死であると気付かされてしまっているのではないだろうか。どこまでも退廃的で、だからこそ甘美なスピッツの魅力がこの楽曲には詰まっている。

2. 名前をつけてやる

ファーストアルバムと同じ1991年リリースのセカンドアルバム。アルバムタイトルとジャケ写から既に異様なほどの名盤オーラを帯びてしまっている。アルバムタイトルはドキッとさせられそうなくらい強い言葉でサディスティックな内面をのぞかせるのにアルバムのジャケ写を一眼見るとそこに映るのは、猫。この秀逸さたるや、、、これだけでスピッツには頭が上がらないと思ってしまう。サウンド的には前作に引き続きビートパンク的でありながらもやはりロックの歴史に対するリスペクトを感じるようなど真ん中のギターサウンドとビート。崎山さんのドラムに関してはビートだけでなくフィルも最高にキマっている。そしてストリングスを用いたり、アコースティック要素を強めた楽曲を入れたり、後々の彼らの代表的な楽曲に繋がるような新たな挑戦をしているアルバムとも言えるだろう。

名前をつけてやる

アルバムの3曲目でタイトル曲にもなっている楽曲。小気味よいビートにコンパクトでいて爽快なフィルが連続する。草野さんのボーカルもAメロ部分はどこまでも気だるそうに進んでいき、Bメロでは一転少年のようなあどけなさと共にメロディックな展開を見せるのが特徴のナンバー。サディスティックなタイトルとは裏腹にどこまでもリズミカルで軽やかに聴かせる曲であるのがもはや怖いとすら思えてくる。詞世界はどこまでも欲望に忠実で無邪気でいてアホらしい。だからこそそこがまともな現実世界からの逃げ場所になっているのだろう。

名前をつけてやる 残りの夜が来て
むき出しのでっぱり ごまかせない夜が来て
名前をつけてやる 本気で考えちゃった
誰よりも立派で 誰よりもバカみたいな

どこまでも性的で真っ直ぐに愚直にセックスのことを意味するこのラインもスピッツというバンドを非常によく表している。「名前をつけてやる」という一見強気でサディスティックな迫ってくるような言葉のすぐ後に、「本気で考えちゃった」というドジっぽさやあどけなさも感じるような正反対の印象を与える言葉を載せる。こういった部分が彼らのどこまでも所在がわからないような掴めなさに繋がる。社会のなかでどこにも属せないようでどこにでも属してしまうようなダブルスタンダードの中に揺れる脆弱なアイデンティティが見え隠れする。そして、この言葉を草野さんの少年のような声に乗せられ得て聞いてしまうと大人と子供の間でどっちつかずに行き来しているマージナルな青年の葛藤にも聞こえてくる。いろんなマジカルなことが一曲の中に起きすぎていてこちらの感情を整理することもままならなくなってしまう。

ふくらんだシャツのボタンを ひきちぎるスキなど探しながら

この一文でやはり下心を隠すことなんてできないほどこういう時期状況の人間にとってセックスというものがとんでもない劇薬であるのだと思う。行き場のない感情の先に見つけたものは抜け出すことなど等にできなくなってしまう泥沼。しかも彼らのこの時期の曲で表象されるセックスは純粋な愛の形の行き着く先としてのものではなく、どこまでも野生的で反理性的な欲情の権化としてのものなのだ。だからこそ強烈でドラマティックに思えるのかもしれない。

プール

アルバムの6曲目の楽曲。後ろで鳴る消えかかるようなドリーミーでシューゲイザー的なエレキギターのサウンドに草野さんの綺麗なメロディラインが乗るポップなナンバー。しかしここでも主題はセックスでしかない。私にとってはこの曲ほど実に綺麗に上手くセックスのこと(直接的な言及はなく全てメタファーなのに、、)を歌った曲は聞いたことがない、というくらい草野さんの巧みな言葉選びが光っている。

君に会えた 夏蜘蛛になった
ねっころがって くるくるにからまって ふざけた
風のように 少しだけ揺れながら

ゆくあてもなく閉塞的な四畳半の汚いアパートですることもなくただセックスだけをして過ごすような退廃的な情景をここまでロマンティックに美しく描けるのが草野マサムネという人物なのだろう。しかし、ただメルヘンでロマンティックであるだけではない。その描写する対象がどこまでも暗鬱であったり破滅的であるからこそ、そこに甘美な美しさが宿るのであろう。喜怒哀楽や希望と絶望、解放と閉塞などが一節すらも使わず一瞬で飛び込んでくるのがスピッツの素晴らしさだと感じさせてくれる一曲なのだ。

3. 惑星のかけら

1992年リリースのサードアルバム。初期三部作の最終作としてこれまでのバンド音楽性が一旦完成までしたアルバムとも言えるだろう。ロック色の強い楽曲が多く激しいギターを聴かせたりグランジからの影響を覗くこともできる。この作品の前にリリースされたEP「オーロラになれなかった人のために」にバラード調の曲やブラスやオーケストラを含んだ編成の楽曲を入れた影響もあるだろう。個人的には初期3部作で一番最初に熱中して聞いたアルバムでもあるので思い入れがある。

僕の天使マリ

アルバムの3曲目の楽曲。軽やかなツービートで突き進むロカビリーソング。ロックへの造詣の深さが見てとれる爽やかなナンバーだが詞世界はどこまでも暗く厭世的なものでありこの二つが完全に矛盾しているまま最後まで流れていく。こんな曲は彼らにしか書けないと断言できる。そしてこの言葉遣いだからこそファンに女性や同性愛者の人が多いというのも納得がいく。

朝の人混みの中で泣きながらキスしたマリ
夜には背中に生えた羽を見せてくれたマリ
きっとこんな世界じゃ 探し物なんて見つからない

これです。これが全てです。ニヒリズムとロマンティシズムが同居してごちゃ混ぜに飛び込んでくる。情景描写としてもとても優れており、最初の一文で社会に感じる孤独感の中で君に出会ったという説明、二文目で自分にとってどれだけ特別な存在であってそれが世界からは離れた距離のある場所で育まれた感情であることを示唆、三文目でそんな君がいてもこの世界は微塵も救われないものであると絶望に帰着する。そしてその後に続く詞ではそんな君がもうここにはいないかもしれない、もう2度と見ることすら叶わないのかもしれないと思わせる。光と影を丁寧に織り込んでできた一枚布のような構成の完璧なラブソングなのだ。ましてや若い多感な時期にこれを聴いて狂わずにいられるわけがない。これだけのことを半ば無意識的にやっていたのだというのだから恐ろしい。

日なたの窓に憧れて

最後に紹介するのがこの曲。アルバムの9曲目の楽曲。スピッツ5枚目のシングル曲として彼らが初めてテレビで演奏したのもこの曲。そういう意味でもメモリアルな作品でもあるのだろう。音楽的にはシーケンスを取り入れるなどやはり様々な実験的なことをやろうとしてるのがわかる。こういったところや時代性、背景などから彼らを日本のRadioheadだと思ってしまう。もし当時自分が現行で彼らの音楽に触れてたとしたら「Radiohead?スピッツでいいだろ」とか尖って、強がって言っている気もする(今となってはRadioheadも好きすぎてそんなこと言えないが)。それは置いておいて曲の内容に戻ろう。

君に触れたい 君に触れたい 日なたの窓で
漂いながら 絡まりながら
それだけでいい 何もいらない 瞳の奥へ僕を沈めてくれ

タイトルにもある「日なたの窓」というフレーズは、この曲の制作当時草野さんが日当たりの悪い部屋に住んでいたところから使われたフレーズであるという話がある。この曲にも感じられる暗さを見ると、やはり日当たりというのは人間の精神衛生上とても重要なのだと実感させられる。
また、君という存在が触れられる存在ではないとも考えられ願望的要素が強いのが特徴だろう。そしてそれは最後の一文にも現れていて、瞳の奥に沈めるという意味もわからないような不可能な願望を抱いている部分が自分と現実との隔たりを強く印象付けるのに役立っている。そして君といるというたったそれだけののことを強く願っているのにも関わらずそれすらも叶わない現実が常に胸を締め付けてくる。こういった部分からもスピッツの厭世観を強く感じるのだ。そしてここまで悲壮的なのはやはり89年のバブル崩壊の影響が非常に大きいのではないだろうか。当時の日本に漂っていた怠惰で閉塞的な雰囲気をここまでよく汲み取って乗せているというのもスピッツの楽曲が至高のポップソングとして機能する一因だろう。
こういった楽曲たちを踏まえてそれ以降の作品を聴いていくとより深い味わいと発見があるのだと思う。


最後に、ここまでパンクでオルタナティブな表現を突き詰めたバンドがアレンジワークやサウンドの変化はあったものの、そのアティチュードを一切変えないまま日本を代表するバンドの一つとして今もなお活動し続けてることはひとえに奇跡であると行っても良いと思う。そしてそんなバンドだからこそスピッツが好きだ(厳密には初期3作ばかり聞いているが)と公言するのがとても誇らしいことに感じてしまう。

ここまで、ただの私の個人的な曲解入りまくりの音楽紹介にお付き合いいただきありがとうございます。これからも個人的に【今】みなさんに聴いてほしいアーティスト、アルバム、楽曲について紹介していきたいと思います。


#スピッツ #音楽紹介 #音楽レビュー #邦楽 #音楽


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?