16.冬のセミ

 ラブタームーラにも木枯らしが吹き始めるようになってきた。
 そんなある日、緑が耳に手を当てながら言う。
「お姉ちゃん、セミが鳴いているよ」
「まさか。だって、もう12月なのよ。とっくのとうに土の下で、今頃はぐっすり眠ってるわ」
 けれど、言われてみれば、かすかにミーンミーンと聞こえていた。
「あれってセミじゃないの?」緑は小首を傾げながら美奈子の顔を仰ぐ。
「そうねえ、セミの声よね。誰かがテレビでもつけてるんじゃないのかなあ」
 それからだった。日が照っている日にかぎって、どこかでミーンミーンと聞こえてくるようになったのは。

「冬にセミか。なんだか不思議な話だぜ」浩が言った。「確かさ、冬になると、セミの幼虫は土の中に潜って穴ごもりするんだよな」
「その通りです。セミは土の中で何年も幼虫の姿で暮らし、夏が始まる頃に外へと出てきて、殻を脱ぐんですよ」
「じゃあ、あれなんの音なの? 道路工事だなんて言わないでよね。あれは、とんでもなく騒がしく響くんだから。第一、町内で工事をしているところなんか、どこにも見かけなかったよ」と和久。
「考えられるのは、電線の発する高周波でしょうか。ほら、高圧電線のそばに行くと、ブーンと音が聞こえるじゃありませんか」元之はもっともらしく説明する。
「電線ならどこにでも張られているし、きっと元之の言うとおりなんだろうけど……」美奈子はよく聞こえるよう、耳を澄ました。やはり、ミンミンゼミの鳴き声以外には思いつかない。

 その数日後、博物館の館長から美奈子に電話がかかってきた。
「やあ、美奈子君。魔法昆虫の1匹の正体がやっとわかったよ」
「ほんとう? それ、どんな虫? おっかないやつ?」
「いや、大して害はないと思う。何しろ、ただ鳴くだけだからな」
「どんなふうに?」
「セミのように鳴くんだ。カマキリのようにものを切り刻んだり、ずっしりと重かったり、ばかでかかったり、なんてことはない。ハ・フュールハスという名前で、意味は『未だかつて誰も見たことがない』という意味だ。どんな姿をしているのかもわからん」
「まさかと思うけど、それってミーンミーンって鳴いてたりしませんか?」美奈子は館長に確認する。
「うむ、たしかそのようなことが書いてあった。言うなららば、冬のセミといったところかな」
 そうか、あれは魔法昆虫だったんだ。美奈子はいてもたってもいられなくなった。

 そんなわけでタンポポ団が集結した。美奈子の右手には魔法の虫取り網、左手にはカゴがぶら下げられている。
「今日は晴れているから、きっとどこかで鳴き出すぞ。居場所さえわかっちまえば、捕まえるのなんて簡単だ」浩は意気込んだ。
「今回の魔法昆虫は楽そうですね」元之はそう言った後、ふと考え込むそぶりを見せた。「いえ、あまりに簡単すぎます。どうも何かが引っ掛かります」
「ねえねえ、それって本当に危険な魔法昆虫じゃないの? 本当は恐ろしい牙を持っていて、捕まえようとした途端、ガブッとやられないかなあ」臆病者の和久は、相変わらずへっぴり腰である。
「どんな危険な昆虫だったとしても、さくっと捕まえてしまえるから魔法の網なのよ。あたしにまかせて、和久。あんたは、後で見ていればいいんだからね。じゃあ、さっさと捕まえに行きましょう」
 タンポポ団は、樹木がまとまって立つ場所を優先的に、町を練り歩いた。

 しかし、こんな日にかぎってセミの鳴き声は聞こえてこなかった。
「さては、タンポポ団のお出ましに恐れをなしたか」と浩はふざけて言う。
「セミのような声で鳴くけど、館長によれば、誰も見たことがないんですって。大きいのか小さいのかもわからないんだわ。みんな、油断はしないでね」
 緑は美奈子にピッタリ寄り添いながら歩いていた。ときどき耳に手を当て、それらしい音が聞こえないか確かめている。
「ぜんぜん聞こえないね、お姉ちゃん」
 博物館の周りの森、見晴らしの塔の回り、中央公園、あちこち探し回ったが、結局この日はセミの声を聞くことがなかった。
「眠ってやがんのか、あんにゃろう」浩はいらただしげに鼻を鳴らす。
「たまたま魔法昆虫の休日だったのかもしれませんね」負けずに、元之も冗談で返した。
「ぼく、もう疲れちゃった」緑がそう言って美奈子の手をギュッと握る。これ以上は時間のむだと悟り、解散することにした。

 冬のセミを探し始めて1週間、タンポポ団はこれといった進展もなく過ごす。
「死んじゃったのかも」和久が、心なしかほっとしたような声を出した。
「魔法昆虫も死ぬことがあるのかなあ」美奈子は懐疑的である。
「鳴き声だけが頼りなのに、これでは見つけられませんねえ」ふうっと溜め息をつく元之。
「なあに、そのうちにまた、元気に鳴き出すさ。そうしたら、今度こそとっ捕まえてやらあ」
「ねえ、緑。あんた、ミーンミーンって鳴いている音聞こえる?」耳のいい緑に、美奈子はそう聞いてみた。けれど、緑はだまって首を振るばかり。
 ハ・フュールハスは、一体どこへ消えてしまったのだろうか。

 曇りの日があり、雨が降り、そしてまた晴れ間が広がる。
 美奈子の家の北のほうから、久しぶりに懐かしい鳴き声が響いてきた。元気いっぱい、ミーンミーンと鳴いている。
「いたっ!」美奈子はタンポポ団全員を電話で集合させると、鳴き声を頼りに現場へ急いだ。
 そこは見晴らしの塔の森の奥だった。
「よーし、今度こそは!」浩は声に耳を傾けながら、1本1本、木を探す。やがて、「あそこだ、あそこで鳴いてるぞ!」と指差した。
 ひときわ背の高いプラタナスの木である。ほかのみんなも、間違いなくこの木だと認めた。ただ、どこを探しても姿が見えない。
「たぶん、ここ!」美奈子は虫取り網を素早く振るった。とたんに、鳴き声がやむ。
 しかし、網の中にそれらしい虫は入っていなかった。
「しくじりましたね、美奈ちゃん。しかし、飛んでいった様子もないし、しばらくここにいれば、また鳴き始めますよ」元之がそう言って慰める。

 元之の言った通り、ハ・フュールハスは再び元気に鳴き出した。
「今度こそっ!」美奈子は音の鳴るほうに狙いを定め、さっきよりも慎重に網を被せる。
 しかし、こんどもまた空振りだった。
「ちっ、いったいどこにいやがるんだ」浩は悔しそうに足を踏み鳴らす。
「まるで、ぼくらをからかってるみたいだね」と和久が眉を寄せた。
「虫なんかにバカにされてたまりますかって」美奈子のイライラはますます高まっていく。
 再びセミが鳴き始めた。網を振るう美奈子。一連のやり取りが、何十ぺんとなく繰り返される。
「おれだったら、一発で捕まえられるんだがなあ」浩はもどかしそうに歯がみした。しかし、魔法の網を使えるのは美奈子だけなのだ。
 セミの声はいつの間にか大きくなってきていて、しまいには耳を塞がないといられないほどになっていた。
「なるほど、これがこの魔法昆虫の悪害というわけですか」ほとんど叫ぶような声で元之が言う。
 ミーンミーンという鳴き声は、いまや10区画先まで届いているに違いなかった。やがて、ラブタームーラの町の外にまで響き渡るだろう。
「早く、捕まえなくっちゃ」美奈子は、どうしようもなく気が急いてきた。
 全員がプラタナスの周りを取り囲み、木の裏、枝の隅々までをじっくりと探す。しかし、冬ゼミがたかっている様子はなかった。
「いったい、どこにいるのよ!」癇癪を起こしかけながら、美奈子は呻く。
「ちょっと、館長に電話をしてきます。もしかしたら、何か手がかりがわかるかもしれませんからね」元之は公衆電話まで走って行った。

「もしもし……」
「ああ、元之君かね? どうやら、ハ・フュールハスを見つけたようだな。こっちまで鳴き声が聞こえるぞ」
「ええ、鳴いている場所はわかっているのですが、どうしても捕まえることができないのですよ。ほかに知っていることはないですか?」
「うむ、何しろ『未だかつて誰も見たことがない』のだからな。魔法の網で捕らえることができないとすると、こいつはやっかいだぞ」
 結局、たいしたことは聞けなかった。
 その間にも冬ゼミの声はますますボリュームが上がり、まるでけたたましく鳴り響くサイレンのよう。
「こいつは、いままでの中でも一番やっかいな魔法昆虫だぞ。このままでは、おれ達の耳がどうにかなっちまいそうだ」と浩。
「お姉ちゃん、耳が痛いよう」緑が泣きながら訴えてくる。もちろん、両耳をしっかり押さえているのに、だ。
「もしやとは思いますが……」元之が何かを思いつく。「ちょっと待っていてください。すぐに戻りきますから」
 しばらくすると、息せき切って元之がかけてきた。
「どこに行ってたんだ?」
「これですよ、これを取りに帰っていました。」手のひらサイズのボイス・レコーダーだ。
「そんなもの、何するの?」美奈子が尋ねた。
「考えてみたのですよ。あの魔法昆虫には、もともと姿がないんじゃないかってね」
「それ、どういうこと?」和久が大声で聞く。

「つまりですね、あのセミは音だけの存在なのではないか、ということです」
 こう説明されても、まだ誰もピンと来なかった。
「いいでしょう。ものは試しです」そう言うと、鳴き声がするほうにボイス・レコーダーを向ける。元之は、録音ボタンをポチッと押した。急に音量が下がり、そのままどんどん小さくなっていく。「ミッ……」というかすかな音を最後に、鳴き声はすっかり消えてしまった。
「わかるように説明してくれるんだろうな?」浩は納得のいかない顔で元之をじっと見る。
「あの魔法昆虫はですね、音だけの生き物なのですね。録音することで、このボイス・レコーダーに吸い取ってしまった、というわけです。ささ、また逃げ出さないうちにカゴに入れてしまいましょう」
 元之は、美奈子の持っている虫かごを開け、ボイス・レコーダーをそっと押し込んだ。
「じゃっ、博物館へもどろうよ、みんな。今度こそ、緑ちゃんが元の世界へと帰れるかもしれないね」
 和久の言葉に、美奈子は胸の奥がチクンとする。ちらっと緑を見下ろし、そうなったら、どんなにか寂しいことだろうと思うのだった。精一杯気持ちを抑え、口ではこう答える。
「そうね。そうなったら、すべてが解決だわ」

 博物館にやって来ると、館長が入り口ですでに待ち構えていた。
「捕まえたんだな? すっかり静けさが戻っている。それにしても、なんだってカゴにそんなものを……」
「訳は後で話します。ともかく、こいつをマユに戻してください」元之は虫かごを館長に手渡す。
 わけがわからないと言いたげな顔の館長だったが、カゴをマユのそばに持っていってフタを開けた。
 割れていたマユが、たちまち元通りになる。
 一同は緑を見つめるが、髪の毛1本すらピクリともしなかった。仲間に気づかれないよう、美奈子はそっと安堵の溜め息をついた。
「こいつは音だけの昆虫なんですよ、館長」と元之。「われわれも初め、そのことに気づかず悩みました。鳴き声そのものを録音することで、ようやく捕まえることができたんです」
「なるほど! それでか、誰も見たことがない理由は。ふむ、音だけの魔法昆虫か。想像すらしなかったなあ」
 割れたマユはあと1つ。緑を呼び出した魔法昆虫はそれに間違いなかった。
 美奈子はまた溜め息をつく。さっきのとは違い、重い溜め息だった。

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