見出し画像

オニと大仏

 由比ヶ浜の海沿いにある、オールドファッションな喫茶店で鎌倉タコライスを食べ、浜辺を歩いてみる。
 海の家はもうないけれど、夏のなごりでも探しているのか、けっこうな人が集まっていた。
「この間まで夏だったなんて、信じられないねえ」誰かが溜め息混じりに言う。
「そうだなあ。だんだん、季節のめぐる速さが増していくような気がするよ」
「やだあ、それって年取ったってことじゃん」
 波打ち際まで寄ってみると、桜貝が一面にちりばめられている。
 季節外れの散桜を見ているようだった。

 そのとき、浜に設置されたスピーカーからサイレンが響き渡る。
「市内の皆様、オニ注意報が発令されました。速やかに浜辺から退避してください。繰り返します。オニ注意報が発令されました。浜辺は危険なので、ただちに避難してください」
 辺りがざわざわと騒がしくなる。なにごとかと様子を見ているうちに、あれだけ大勢いた人が、いつの間にかいなくなっていた。
 寂しげな秋の午後、わたし1人だけが海岸で波の音を聞いている。

 波打ち際に、ひときわ背の高い影があった。いまのいままで海にでもいたのか、頭のてっぺんから爪先までぐっしょりと濡れそぼっている。
 トラ皮のパンツだけを身につけ、赤銅色に日焼けしたたくましい姿をしていた。ぼさぼさの髪はほとんど赤といってもよく、その頭には金色をした2本のツノがニョキッと突き出ている。
「オニだ……」わたしは思わずつぶやく。
「そう、オレはオニだ」オニは低い声で唸るように言うと、ゆっくり近づいてきた。
 わたしは恐怖を覚え、浜辺を背にして駆け出す。国道を渡りきって振り返ると、まだ砂の上に足跡をつけている最中だった。カッと見開いた眼だけは、確実にわたしを捕らえて放さない。きっと、どこまでも追ってくるに違いなかった。

 狭い県道を折れ、山の方へと走る。
 オニは急ぐ様子もなかったが、わたしが立ち止まって休憩をするたびに、ずっと向こう側の道から睨みつけていた。あるときは曲がり角の塀の陰から、またあるときは坂道の陽炎の中から。
「どうしよう。とことん、追いかけてくる。いつまで逃げればいいんだろうっ」わたしは不安でたまらなかった。
 捕まったらどうなるのだろう。海に引きずり込まれるのだろうか? その場でボリボリと貪り食われてしまうのだろうか?

 どこからか声がした。オニの声ではない。それに、耳で聞いているのでもなかった。
 心の中に直接語りかけてくる、そんな声である。
「そのまま、まっすぐ。もうすぐですよ、もうすぐ」
 とても安心する声だった。わたしは持てる力を振り絞って、声のなる方へと走る。

「あ、ここかぁ……」鎮守の杜を抜けると、見覚えのある門が目に入った。小学校の頃、修学旅行で来たことがある寺院だ。
「さあ、あと一息。こっちへおいで」声が呼ぶ。わたしは門をくぐり、広い境内を走った。
 もう、わたしには声の正体がわかっていた。
「来ました」わたしは大仏を見あげる。
「わたしの中にお入り」大仏が言った。
 わたしは傍らの入り口から、中へと入る。暗くて、しんと静まり返っていた。

 初め、少しだけ怖かった。外界から閉ざされ、二度と光を見ることができないのかとさえ思った。
 胎内を空気が流れているのか、風の音が聞こえる。まるで、大仏が呼吸をしているかのようだった。
 それに合わせるように息を吸ったり吐いたりしているうち、怖いと思う気持ちが失せていく。いつしか、大仏と一体となったような気持ちになり、いい知れぬ心地よさに包まれていた。

 外で砂利を踏みしめる音がする。あのオニがやって来たのだ。
「人が来なかったか?」オニが大音声で尋ねる。
「来ました」大仏が静かに答える。
「渡してもらおう」
「ならば、あなたもわたしの中に入らねばなりません」  
「できぬ。オレはオニなのだ」とオニ。
「オニをやめればよろしい」
「オニをやめるつもりはない。そなたの中に入るつもりも毛頭ない」
「では、どうします?」大仏が聞いた。
「去る。そうするよりほかにはあるまい」

 オニが帰っていくのがわたしにはわかった。
 けれど、わたしは大仏の中から出たくないと感じていた。
 まだ、しばらくは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?