2.ゼルジーとリシアン

 車がストンプ家に到着したその頃、リシアンはまだ森の中だった。夏の日暮れは遅い。そろそろ夕方だというのにいまだ日差しが強く、木立の影はくっきりとしていた。
 お気に入りの隠れ家、桜の老木にぽっかりとあいたうろの中で、リシアンはあいかわらず空想の世界にひたっていた。
 いま訪れているのは、何もかもがパンでできた国である。家は丸ごと一斤の食パン。屋根にはブルーベリーやイチゴ、マーマレード、外壁にはバターがたっぷり塗られていた。
 町の中央には広場があって、レーズンパンの噴水からはホイップ・クリームが勢いよく吹き出している。住んでいる人達は乾パンでできていて、生地の上にマジパンで服が描かれ、彩りも鮮やかに賑わっていた。
 整列して行進する近衛兵のかつぐ鉄砲は固いフランスパン、王と妃の頭に乗るのは黒と白のチョコレートにカラフルなゼリー・ビーンズを埋め込んだ王冠とサークレット。
 リシアンは、これまでに自分が食べたことのある思い出せるかぎりのパンを、次から次へと空想の舞台セットに並べ立てていった。
 遠くでカラスの鳴き声を聞き、そういえばお腹も空いていることに気がつく。
「いけないっ。もう、こんな時間!」うろから慌てて飛び出し、家へと向かって一目散に小道を駆けていった。
 門をくぐったリシアンの目に、デイジーのプランターの前でしゃがんでいる何者かの姿が映る。その小さな人影もこちらに気付き、ゆっくりと立ち上がった。ささやくような声で話しかけてくる。
「あなたがリシアン?」
 リシアンは驚いて、相手をまじまじと見た。タンポポの綿毛をまとったような金色の髪のせいで、丸い顔がいっそうまん丸に見える。こちらをじっと見つめる瞳は、これまたまん丸で大きかった。夕日を受けてオレンジ色にきらめいているが、本来の色はきっと、淡い青か緑をしているに違いない。風が揺らす真っ赤なスモックシャツだって、本当は白かピンクなのだろうな、と思った。
 そこまで観察して、ようやく口を開く。
「あなた、だあれ?」
「わたし、ゼルジー・ティンブル。ロンダー・パステルから来たの」ゼルジーが答えた。「ロファニーとベリオスのことは知っているんだけれど、あなたとは会うのは初めてね。でも、だいたい想像どおり。この夏休みはきっと、生涯で最高のものになる気がするわっ!」
 リシアンは、都会に住むといういとこのことを思い出した。たまに兄達が遊びに行くのを、うらやましく見送っていたっけ。ちょうど、今回のサマー・キャンプのように。
(あたしが独りぼっちになってしまうもんだから、お父さんやお母さんが気をきかせて、この子を呼んだんだ)と、リシアンは察した。
「初めましてゼルジー。あなたが来てくれて、本当にうれしいわ」リシアンはにっこり笑って会釈をした。「去年はベリオスがいてくれたんだけれど、今年は中学に上がってしまったもんだから、とうとう誰もいなくなってしまって、どうやって過ごしたらいいか、色々思い悩んでいたところなの。親友になれたらって思うわ」
 するとゼルジーは駆け寄ってきて、リシアンの両手をとった。
「ああ、もちろんよ! あなたのお母さんから電話があったとき、もしかしたらソームウッド・タウンに行ってもいいって言ってもらえるんじゃないかと予感したの。そうなったら、どんなに素敵だろうってね。だって、ロンダー・パステルはとっても退屈なんだもの。山も広い原っぱもないし、通りではいつも自動車に気をつけていなければならないのよ。遊ぶ場所なんて、ほんとにどこにもないんだから」
「あら、あたしは反対に都会に行ってみたくってたまらないのよ! 向こうにはお店がいっぱいあって、電車は10分ごとに駅に入るし、夜でも自分の手の指を数えられるくらい明るいんでしょ? 憧れだわ。だから、あんた達のことをすっごくうらやましく思っていたの」
「いいわ、リシアン。冬休みはあなたがロンダー・パステルにいらっしゃいな。わたし、帰ったらお父さんに話しておく」
「ほんと?」ほっそりとした顔の上で豊かに変化する、真っ黒などんぐりまなこを大きく広げ、心からの喜びを表した。
「それでね、お母さんに『スズラン』へ連れて行ってもらうの。『スズラン』っていうのはね、近所にある喫茶店なのよ。そこ、イチゴのパフェがとってもとってもおいしいの。グラスの中でクリーム・チョコレートとバニラ・アイスが交互に二段で詰め込まれていて、ホイップ・クリームがグラスの縁までぎりぎり盛られているわけ。てっぺんには特大イチゴが乗っているんだから! あれはほんっと、最高だわ」
「素敵! それは絶対に行ってみたい場所の1つだわ」リシアンはスカートのポケットから小さなメモ帳と鉛筆を取り出して、「スズラン」、「特大イチゴのパフェ」と書き記す。「わたしね、何か思いついたり忘れたくないことがあったときのために、メモ帳を持ち歩いているのよ。あとで読み返すと、それだけでもとっても楽しいんだけれど、そこからまた別の空想が広がってわくわくするの」
「わたしも空想するのが好きよ」ゼルジーは両手を絡めて、沈んでいった太陽の方角へと顔を向けた。赤紫色に染まる雲が名残惜しそうに光を放っている。「なんにもすることがなくて、たとえば外が雨だったりする日には、子供部屋で1日中あれこれ想像しているわ」
 そのあとも2人は熱く語り合い、ようやくと家の中へと入っていったのは、たっぷり30分も後のことだった。
 迎え出たクレイアはゼルジーとリシアンを見て、
「あらまあ、もうお互いに紹介はすんだみたいね。そんなにしっかり手を結び合って、まるで姉妹みたいじゃないの」と驚き喜んだ。
 ゼルジーが居間に顔を出すと、ソファーでテレビを観ていたパルナンがくるっと振り向いた。
 パルナンはゼルジーを見るとにやっと笑って、
「どこに行ってたんだ、ゼル。ぼんやり考え事でもして歩いていて、池にでもはまったのかと思ったよ」
 ゼルジーが口をとがらせると、あとに続いてリシアンが入ってきた。パルナンとリシアンは、それぞれ小さく「あっ」と声を洩らす。
 パルナンは立ち上がって、「こんにちは。ぼくはパルナン。君……君はリシアンだろ?」
 リシアンもやや緊張した様子で、「ええ、そうよ。初めまして、パルナン。ようこそソームウッド・タウンへ。夏休みの間、よろしくね」
 リシアンの形式張ったあいさつが面白かったとみえ、芝居がかった身振りで返した。
「こほん。本日はお招きにあずかり、ありがとうございます。この長い長い夏休みが、われわれにとって、素晴らしいひとときとなりますように」
 リシアンはからかわれて、恥ずかしさのあまり、真っ赤になってうつむいてしまう。
「パルっ!」ゼルジーが咎めた。パルナンはぺろっと舌を出し、ソファーに座り直してテレビの続きを観はじめるのだった。
 さしあたって、パルナンとリシアンのこの日の会話はこれっきり。一方、子ども部屋で2人きりになったゼルジーとは、その百倍ものおしゃべりを楽しんだ。夢中になりすぎて、食事の時間を知らせにクレイアが呼びに行かなくてはならないほどだった。
 夜、パルナンとゼルジーは、リシアンが言うところの「とっときのお部屋」で眠ることになっていた。来客用の寝室だったが、無駄がなくさっぱりしすぎているため、リシアンは好きになれなかった。
「だってあの部屋、ほんっと、なんにもないんだもの。ただ眠るだけのところ。そりゃあ、よそから来て泊まっていくお客さまにはいいでしょうけれど。想像力を使わなければ、1時間だっていられないのよ」
 ゼルジーもちょっとのぞいてみたが、すぐさまリシアンの意見に同調した。着替え用の小さなチェストを挟んで、両脇にがっしりとした作りの実用的な木製ベッドが置かれいる。真っ白なシーツ、ありきたりな図案がほどこされた掛け布団と毛布。まるで病院の個室だわ、とゼルジーは顔をしかめた。
 パルナンはといえばむしろ逆に、大人扱いされたことが誇らしげな様子である。
「シンプルなかっこよさってものがわからないなんて、やっぱりゼルは子どもだな」パルナンはそう言って鼻で笑うのだった。
 リシアンの提案で、彼女の子ども部屋に折り畳み式のベッドを運んでもらい、そこで一緒に寝ようということになった。
「なんていい思いつきかしら。あなたってば天才じゃない?」ゼルジーは心からほめる。
「そう広くはないけど、ベッドもう1つ分くらいならちょうどよね。わたし達、どちらかが眠りに落ちるまで、存分に楽しい計画を練ることができるわ。ああ、いまからもう、寝に行くのが待ち遠しいくらいっ!」とリシアン。
「わたしもよ。いつもは、寝る時間が近づいてくるだけで憂うつな気分になったものだけれど、今夜はどんなにがんばってもふさいだ気持ちにはなれないの。なぜかしらね、リシアン」
 奇妙なことに、その夜「眠りの妖精」はなかなかドアをノックしてこなかった。ふだんならとっくに寝息を立てている時間なのに、いつまでもおしゃべりが止まらない。しまいには部屋中が言葉で埋め尽くされてしまうのではないか、と心配になるほどだった。
 それもやがてはとぎれとぎれていき、いつしか2人は夢の世界へと旅立っていた。

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