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エンパスが安心できる場所

こんにちは、MUERAです。
先週末はひさびさに
島の森林公園にこどもと散歩に出かけました。

公園と言ってもディズニーランド4個分という広大な敷地で
手付かずのジャングルの部分も多いので
特にルートも決めず、森林浴をしながらテクテク気ままに歩きます。

鳥の声や風が木を揺らす音に混ざって
遠くからかすかに三線(さんしん)の音が耳に届きました。

こどもと顔を見合わせて
音楽が聞こえるほうに歩いて行ってみることに。

男女ふたりが海の見える東屋で
それぞれに三線をならしながら、ゆったりと唄を歌っていました。

この土地で生まれた音楽だからか
森林公園の空気感を邪魔することなく

海と森の景色に、ゆっくりと三線の音色が溶け込んでいきます。

夕方の平和な島の時間をしばし味わって、帰途に着きました。

さて

先日、野鳥観察の体験について書きましたが
野鳥を観察した4つのスポットのうち

2箇所はあまり人が住んでいないエリア、
2箇所は島の9割の人が住む市街地に近いエリアでした。

同じように望遠鏡で野鳥を観察していたのですが
自然しかないような場所と、市街地の近くでは

まったく自分の感覚が異なっていて、ちょっとびっくりしました。

自然の中では、
鳥の世界、
つまり大自然との一体感をナチュラルに感じやすかったのですが

市街地で観察しているときは
外から自然を観察している、

つまり「自然と自分は別のもの」
という明らかな感覚の違いがあったんです。

当たり前と言えば、当たり前なのですが

市街地の周辺とは言え、観察していた場所は
大きな海が目の前に見る浜辺や
目の前に畑が広がる川のそばなど

つまり充分「自然」のある場所です。

私がエンパスだから、というのもあると思いますが
やっぱり人が多く住む場所だと

人の気持ちや、飲食店の看板など、情報が多すぎるせいか
自分が自然の一部である、と感じにくい
んだなぁと。

そしてそれは「自分という存在への肯定感」にも
影響があるんじゃないか?

ふと感じたんですね。

エンパスが自然の中にいると安心できるのは
自然の中に息づいているものはすべて

当たり前に自分の生命を肯定して全うしようとしているから

その世界に共鳴できると
自分を無条件に受け入れやすい
のかもしれない、

そう思いました。

自分を誰かと比べて気分が落ち込んだり
人間関係に傷ついて
生きることの意味がわからなくなるようなときは

自然の中に身をおいて、
自分の命もまた自然の一部だということ

本当は無条件に承認されているから
ここに存在している
ということを

思い出せると良いのかもしれません。

MUERA


「エンパスの疲れた心が軽くなる ◡̈」
南の島通信𓂃𓆉𓈒𓏸
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