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小説「芙美湖葬送」順不同・読み切り版

4医師は時間の問題といった


間隔が空きました。欲張って、年寄りの冷や水で,同時並行で「芙美湖葬送」「死ぬ準備」「童女トン」など三本を掲載しているので、いささかへばってしまいました。だめですね。老人はコンロールが利かない。前後ダブっていることもある。でも妻が死んで今年で20年、墓標だと思って書き続けます。料金は100円になっているけど無料です。月ぎめにしたい。でも老人だからクレジットがない。デビットはあるけど。

        そこまでいっていないみたい・・・では。


主治医の説明に拠れば、挿管自体が炎症の原因になるという。肺炎菌や、緑膿菌の他に、さまざま細菌が肺を侵しているから、もう自己呼吸は出来ない。器官挿管して、人工的に酸素を送るしかない。

それも一週間が限度である。挿管と接触した部分に炎症が起きるからだ。一週間したら抜管して、新しいパイプと取り替えなければならない。その時にまた苦しむ。その苦しみを見ていられない、と私は思った。

長女と私は、二回目の器官挿管は本人を苦しめるだけだからやりたくないといい、次女の琳子は、助かることならどんなことでもして上げたいといった。しかしその助かる見込みは、と聞かれて医師は、仮に1%でも可能性があればやるのが医師の仕事です、といった。

新しい器官挿管をすれば、少なくとも一週間は保つだろう。その間に炎症が治まれば、回復する可能性もある。もし炎症が治まらなければ三回目の交換をしなければならない。ことによったら気管切開もあり得る。

気管切開したらどうなるか。更に大きな呼吸器を取り付ける場合もある。いまでいうエクモみたいものか。鉄の肺なんて治療器を昔聞いた気もする。そんな大型の治療機械がこの病院にあるのだろうか。どのくらいの費用が掛かるのだろう。それで生還できるのか。

会話は出来ますか。たぶん出来ない。食事も人工栄養に頼らざるを得ない。
それでは生きた屍ではないか。しかしその段階ではそれしかない。それもできるかどうか分からない。なんだ仮定の話か。そんな話が、患者家族と医師との間で続いていた。しかも結論は出ない。これ以上苦しませたくない、との思いは同じでも、じゃどう対応するかで、行き詰まってしまう。

話し合いがつかないまま、この件は、明朝もう一回話し合いましょう、と十時過ぎに主治医も帰った。その時点では、今朝の事態を主治医自身想定して居なかっただろう。だから器官挿管の専門医を、大学病院からよんでいた。

人間の聴覚は、最後の最後までしっかりしている。そんなこと臨死体験に関する本で読んだことがある。普通の何倍もの敏感さで、周囲の動きを感じ取っている。だからチベット僧は、死に逝く人の耳元で語りかける。お前の人生は素晴らしかった。何も悔いることはない。家族も安泰だ。こころしずかに逝け。一晩枕元で語りかける。孤独な寂しい思いをさせないためである。

日本では医師も看護師も険しい顔で行き来する。体にはパイプや器械が括り付けられている。それでも有体離脱して、天井から、自分を含めて寂しく見下ろしているのだろうか。それでは余りにも可愛いそうだ。

しかも芙美湖は、昔から自分の霊能力を自慢していた。霊気が漂っているときは、赤外線ランプをつけた時のように、全体が赤く滲んでいるの。そんなことを云っていた。夫婦として五十年近く生活を一緒にしたのだから、他人に見えないことでも、芙美湖には見えただろう。
 
ならば尚のこと、娘や私に言い残しておきたいことがあるだろう。それを云って欲しい。でもそんな思いも言葉にならない。日本の病院は騒がしすぎる。此処には患者も死者も不在なのだ。

夢なら醒めよと身体を震わせても、もうその体力も残っていないだろう。そんな悪夢のような状態からでも、何かを必死に伝えようとしただろう。喉の筋肉も衰弱しきっていたから、もう思いを伝えることは出来きない。ただ、受ける感覚だけは研ぎ澄まされてゆく。そんな時間だった気がする。もし死ぬのが分かっていたら、

何もしないで、
家族だけで、手を握りあっていたかった。

 
しかし、脚の根っこに固定した深静脈への栄養補給カテーテルも、取り付けてからすでに一ヶ月は経っている。脚はすっかり細く白くなっている。
身体全体が聴覚化していただろう。反応する力ももう残っていない。

そんな自分を含めて、
芙美湖は冷静に病室を見下ろしていた気がする。


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満85歳。台湾生まれ台湾育ち。さいごの軍国少年世代。戦後引き揚げの日本国籍者です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び頑張った。その日本も世界の底辺になりつつある。まだ墜ちるだろう。再再興のヒントは?老人の知恵と警告と提言を・・・どぞ。