見出し画像

ままならぬままママをする。


どうにもならないことはどうにもしない。
独身時代はそんな風に諦め半分で気楽に生きてきたけれど、子育てはそうはいかない。
子供に触れた瞬間から親になるのだ。諦めたところで、どうにかしなければならないことばかり。

親になったことを後悔しているとか、そういう話ではないことは前もって伝えさせて頂きたい。

「子供への完璧なサポート」という他人の言葉が、私は少し苦手である。こちらを思っての言葉だろうが、その概念を持ち続けること自体が、なかなか難しいことなのではないかと思っている。
教訓や統計は勉強になることは多くても、今のところあまりあてになっていないのだ。そしてサポートには上限も下限も無ければ終わりもない。自分の思う基準を満たせないことや、挫折も多い。


オムツをまとめて買っても、メーカーによって子供の体型と相性が悪かったり、容量が足りなかったりする。
ミルク一つ用意しても、種類によっては飲まないし、温度がわずかに違うだけで拒否をされる。
ご両親からお祝いに買ってもらったお洒落着は、着せると何故か機嫌が悪くなる。落ちないシミだらけのクタクタしたお下がりの服を気に入って何度も何度も着る。
Tシャツは二回腕まくりをしないとダメ。靴下の丈は長いものじゃないとダメ。良い天気だから長靴を履いていく。雨だけど新しい靴が履きたい。まだオムツは外れていないけれど、服を着るのは嫌だから裸のまま寝たい。

誰がその全てを予想出来ただろう。
あまりにも呆気なく儚く散る親心である。

成長に合わせて毎回毎回途切れることなく準備をしては、ことごとく期待を打ち砕かれていく。
まぁでも、勝手に期待したのはこっちの方なのだ。
想像していた通りにいかないのは、子供達が何を臆する必要もなく大人へ意見出来るという証。
それはそれで、いいことなのだろう。


注意は散漫、好奇心は旺盛。
いつも通り、泥とお漏らしと食べこぼしで汚れた洋服が洗面所にたんまりと積まれている。私はそれを一つ一つ点検しながら手洗いしていく。
一ついつもと違うことがあるとすれば、今日はそこに私の服が混ざっていることくらい。
申し訳ないことに、子供たちがカレーやトマトスパゲッティの日に限って白いシャツを選んで着てしまうところは、私譲り。

「マーマ、がんばれ、マーマ、がんばれ」

大胆なシミをつけた張本人たちは、洗剤とオキシクリーンを駆使して手揉み洗いをする私の脚に絡みつきながら、そんな調子で応援をしてくる。
君たちかなり他人事だけど、自分のなんだよ。
そう思うけれど、まぁ、気遣いがあるだけ良しとする。
「大きくなったら自分でやるんだよ」と言葉をかけて、私はシミ抜きを続ける。


独身時代も今も変わらず、どうにもならないことは、どうにも出来ないままだ。

しかしそれは悲しみの連続というわけではない。
まっさらな土に種を植え、芽が出て花が咲き、実がなるまでに時間がかかるように、その瞬間一つ一つを楽しみながら土の上を眺め続ける感覚に近いと思う。
いくら駄々をこねても、自然や時間に任せることでしか乗り越えられないことが、たくさんある。

シミが一つ薄くなるごとに肩の力が抜けて、子供たちと同じ目線になっていく。掃除も洗濯も、後から起こる面倒ごとも全て後回し。なんだかんだと受け止めて、一緒になって公園の芝生に寝転がる。
青い空を見上げながら、子供たちに「空は何色?」などと聞いてみる。私の目には水色に見える空も、子供たちの目には同じように見えていないことがほとんどだ。

どうして上手くいかないんだろうとか、他と比べて自分は酷く不器用だとか悲しくなってしまったら、とりあえず全部放り投げて休む。
誰かのためじゃなく、自分のために。
そういう時の私は「ママ」ではない。ただの「○○ちゃん」だ。絶対に負けない追いかけっこをしたり、大人げなくジャンケンで勝ち続けて子供たちを悔しがらせたりするのだ。


シミ抜きも、息抜きも、いつかは完結してしまう自分の人生物語の大切な一コマになると信じている。
私はきっと人よりもシミ抜きコマと息抜きコマの多い人生だけれど、それもそれで、悪くない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?