お久しぶりに。突風と豪雨と静けさと。

2月13日
前回、というか2回しか投稿していないけれど、あれからもう半年が経ちました。ちょうど半年か。
半年って短いようで長い。
いろんなことが変わって、いろんなことが始まったと思ったら、終わってて

note書きたいと思う時って、
書き余るほどのマイナスな(プラスだったらわざわざ書かない)気持ちがある時か、
心に書くスペースができた時

逆にこの半年間は、いろいろ、仕事とか、学業とか、
というよりも特に恋愛、主に恋愛の、
小さい、けれども心を持ってかれるような凹凸が、頻出していて、
書き余るほどの気持ちがあるわけでもなくて(書ける情報がないほうが適切なのか)、
そして何より心に書くスペースができていなかった。

前の彼氏とさようならして、新しい彼氏ができて、
これほどのない幸せを感じていた。
知り合って半年くらい、付き合ったのもまだ3ヶ月弱。
だけど気持ちのアップダウンは3年半くらい経験した気がする。
幸せを感じた3時間後に不安とか喧嘩が差し迫ってきて、
次の日になったらなんとなく終わる。
忙しくて、それ以外のことが手につかない、というよりも手につかせようとしていない自分がいて、初めての自分に出会って、ちょっと怖いけどこれが本当の「すき」だと思ってた。
「だと思ってた」とか言ったけど、今正解がわかるわけではない。

多分お互い愛してた。
本当の意味で愛してた。生半可じゃない。だからこそぶつかってばっかりいた。
ただ問題なのは、私は言葉下手。相手は行動下手。
愛していてもうまく相手に伝わるように表せていなかったんだと思う。
私の場合は考えること計画していること楽しみにしていること、
全て一旦自分の戸棚にしまって、今ここでとっておきのおもてなしの日に、
用意して集めておいた食器を取り出して、披露しようと思ってる。
でもそうすることで披露の瞬間がやってくる前にお皿なんて集めてなかったんでしょって思われて、いつも陳腐なお皿ばっかり出してくるって思われちゃう。
しまってるだけではダメなんだよ。

そのせいで思ってもない方向に進んで。
浮気とかではなく、ただひと事件で全てが崩れて、
修復不可能なのかもしれない。
まだわからないけど、そういう時期待ほどしちゃいけないものはない。
LINEの一通一通に一喜一憂。
これが一喜一憂かって初めて感じる。
自分でわかる、お母さんへとる態度で自分の一喜一憂度が測れる。

その一憂の部分が顕著に現れた。
ひいおばあちゃんのお葬式へ向かう6時間ドライブの中で。

話変えるんだけれども、毎回思う。
葬式のたびに実感すること。諸行無常だってこと。
仏教校12年間通い果たしたし、結婚式1回しかも3歳の時にしか出たことないけど葬式はもうこの4年間で5回もあった。
だからこそ諸行無常なんて毎日四六時中意識してもいいはずだけど、
私がなんも考えていないせいもあって、諸行無常が目の前で発生するまで、
忘れている。

今回もそう。身内の話だから詳しく書かないけど、諸行無常。
数日前まで元気だったひとがいなくなっちゃう。
そんなことってあり得るんだよね。
道中、インスタのおすすめに「なぜ人は死ぬのか、それは遺伝子的に死ぬことがプログラミングされているかだ」っていう投稿が出てきた。
だろうね。
知ってるよプログラミングされていることくらい。
でもなんでわかってるのにわかってないんだろう。

彼氏のこともそう。
いつまでも嵐のような嬉しさ幸せがあるってわかってないのに、
豪雨が来ると心が腐る。期待しなければいい話なんだけど、それでも好きだから。夢中だから。待ってる。

辛い今。
寂しい、孤独、虚無、クールベの絵の中にいる気分。
彼氏のことは今も好きだけど、いつまでも嵐の中にいられない。
支えが欲しい時に、支えてくれない。支えてくれるって期待をしなければいいだけの話なのに、待ってた。
待ってても迎えに来るなんて限らないのに。迎えが来るなんて思うべきじゃないのに。
わかってるんだよ。頭の中ではわかってる。
わかってるんだけど、わかってないことばっかりなのが私で、人間なのかもしれない。
ひいおばあちゃんが亡くなって、今自分は何をしているんだろうって思う。
大切に紡いでくれた命を自分でちゃんと大切に扱えているのだろうか。
ああ、仕事も溜まっている。こなさないと。そんな気力なんてない。
全世界の躁鬱の人の鬱部分が集合したみたいな空気の世界にいる気分。
嵐の後の静けさの中にいる気分。
全てが荒い果たされて、全てがいなくなって、残っているのは
残っているのは何もない。空っぽ。かろうじて記憶があるかないか。
躁の世界へ行きたい。でも鬱がその後に待ってる。
それでもいいからとりあえず違う世界に移りたい。もう少ししてから。




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