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友人に寄せた死生観。


前に根っからの浄土真宗信者だと書いたな。あれは嘘だ。

否、あながち嘘でもなく実家は一応は浄土真宗なのですが、わたしは別に浄土真宗に帰依している訳ではなくてですね、教義的に云うと一番しっくり来るのはチベット仏教なんだな、と云うお話です。

チベット仏教について詳しく語るのはわたしの知識と脳機能と言語能力とキャプンションの文字数の限界を超えてしまうのでサラッと書かせて頂くと、

「教義は般若心経に近く、死生観は輪廻転生である」

これ、チベット仏教徒やチベット仏教を勉強されている方が目にしたらしこたま怒られそうだな。ダライ・ラマすらシンギングボールで殴り掛かって来そう。
良い音しそうよね。わたしあの音はちょっと苦手なのですが。


わたくしは物心のつく前から絵本の代わりに父が所有していた手塚治虫先生の「火の鳥」を読んで育って来たので、輪廻転生が脳の奥深くに刻み込まれてしまっているのですよね。だからよく前世だの来世だのと書いてしまう。水木しげる信者だけれどオカルト懐疑主義者なので地獄も極楽も信じていないのに、どうしても輪廻転生だけは人生と死生観に着いて回るのですよね。

古今東西昔から「前世の記憶を持って生まれた」と云う話はよく目にし、実は仕込みでまるきりのインチキだったり、前世の自分を殺した犯人を思い出し探し当て、告発した子供の話なんかもあったりと探せば数多に出て来るのですが、実際何処から真実で何処からが作り話なのか全く分かりません。が、面白くてつい読んでしまう。

死生観と言うのは時に優しいですからね。

良い行いをしたから極楽浄土で安穏と暮らせるだろう。と深い眠りにつくも良し。
あいつは酷いヤツだったからきっと地獄行きに違いない。と憎しみを刻む思いを地獄の牛頭馬頭に託すも良し。
来世では愛しのあの人の飼い犬として生まれ変わるのよ、と乙女チックな夢を見るも良し。
前世での縁があって結ばれたのだと秘めたる情事に走るも良し。いやそれは駄目だけれども倫理的に。
来世でも一緒になろうと堅い契りを交わすも良し。

思い出は、心の中で永遠に生き続けてくれるものでもあるし。

天国で幸せに暮らしてくれていると思えば遺された側は救われるし、転生してまた何某かの生き物となり家族となって一緒に暮らしてくれると信じれば、今は悲しさとか寂しさとか、愛しいものを失くした時の「もっと何かしてあげられることがあったのでは」と云う、そのものを愛する気持ちが強ければ強いほど心に重くのしかかってしまう懺悔の思いも、少しずつほぐれて行くのではないかなあと思うのです。

別に急く事はないのですよ。そう言う懺悔の気持ちは確実に次に繋がるものだから。それが居座っている間はすごくすごく辛いけれど、でもそれを乗り越えられる様な素敵な出会いはいつか確実に存在して「ああ、この子はあの子の生まれ変わりに違いない」と云う強い衝動に駆られたり、駆られなくとも身近に感じたりしてきっとまた家族になれる。

そこに若干の違和や良心の呵責を感じてしまう時もあるかも知れないけれど、でもみんな生き物が大好きで、好きな気持ちって止められないものですものね。


好きなものを失い、そのポッカリと空いてしまった隙間をまた好きなもので埋める。これの何処が悪かろう。
嫌いなものが多い人生より好きなもので満たされている人生の方が余程いいじゃない。ねえ。

エキゾチックアニマルは愛玩動物として進化を遂げた犬猫と比べて本当に色々と難しいですよね。元々野生の生物だから具合が悪くてもそうそうにその姿を見せてはくれないし、もちろん話せやしないから飼育環境だって試行錯誤の連続。

でもその試行錯誤は好きだからこそ出来るものであって…って、嗚呼、何を言いたいのか分からなくなって来た。


とにかく時に自分を責める気持ちも大切であり、ある程度省みてこそ人生は良い方向に進むもの。

しかしだからと言って過去に囚われ過ぎるのは良くないし、自分を責め過ぎるのもダメなんよ。そのバランスが難しいけれどね。
でもかつてわたしが失った命や、諸兄諸姉が失ってしまった命たちは確実に幸せだったのだから。

幸せだったよ、大丈夫。
あなた方と暮らして幸せでない生き物はおりません。断言します。

だから泣きたい時はたくさんお泣き。
酒は悲しみを忘れさせてくれるけれど、こぼれる涙は悲しみを癒してくれるよ。