見出し画像

池袋暴走事故が暴き出した恐ろしい社会の「しくみ」

たいへん痛ましい出来事だが、社会の注目を集めた「池袋暴走事故」というものがある。
 事件そのものは、何度もニュースで取り上げられているので、知っている方が大半だと思うが、その事故に対しての民事裁判が行われて被害者9名に対して「1億4千万円」を支払うように、という判決が出た。

 これは、被害者遺族ら9名に対しての「合計の被害弁済額」であり、なおかつその金額を支払うのは「加害者」ではなく、加害者が加入していた自動車保険会社であることをまず理解しておいてほしい。

 ところがこの判決を受けて、被害者遺族に対しては、勘違いを含めての話だが「高齢の加害者にそれだけの額を払わせるのか」といった誹謗中傷が起きているらしい。

 遺族としては、自分の愛する者を失った上、長く辛い刑事裁判を経て、さらに民事裁判の結果でそこまで「赤の他人」に言われるのだから、踏んだり蹴ったりで、何一ついいことがないと思う。

 その心中を察するにあまりある。


 ========

 ところが、この事件のここまでの顛末について、ちょっとばかりある事実に気づいて、恐ろしくなってしまった。

 この日本社会というものの「しくみ」には、一般の人が気づかないような戦慄する「非道さ」が含まれており、僕たち私たちは、今日いや明日にでもそれに巻き込まれてしまうかもしれない、という恐怖が隠れているのだ。

 奇しくも今回の事故、事件によって、そのことに気づかされてしまった私の心中は、もはや穏やかにはならない。

 どういうことかというと、まず、誰かが事故を起こしたり、事件を起こしたりすると、「加害者」と「被害者」が生まれる。ここまではそれほど難しくない。

 そして、加害者は「罪と罰」を受ける。いわゆる刑事事件というやつだ。

 池袋の事故の場合は「上級国民」である老人が、最終的には罪を認定されて罰を受けることになった。


 しかし、これは加害者側だけの話であり、被害者からすれば、実は何も解決してはいない。ただ、愛する者を失っただけだ。

 何も非がないノーマルな状態で暮らしていた市井の人々が、ある日ある時突然に「被害者」あるいは「その遺族」になるわけである。

 さて、ここで加害者は「自分の行った行為に対して罪と罰という形でなんらかのケツを拭かされる」ことになるが、被害者については、最初から最後までマイナス状態で、ただの丸損である。

 ここで注意してほしいのは、「加害者が刑務所にぶちこまれたり、死刑になっても、それは加害者のやったことに対する仕置きであり、別に被害者側に対してはなんの補填にもなっていない」ということだ。

 
 そこで、今回のニュースのように、「民事裁判で損害賠償を請求する」ということになる。

 お国は、「加害者はこれこれこのように悪いので、これくらいの刑罰を与える」ということを認定し、強制的に執行する。重い場合は死刑として命を奪う。

 しかし、肝心の「被害を受けた側」に対しては何もしないのだ。民事裁判を「被害を受けた側が自ら動いて訴訟を起こす」ことをしないとほったらかしなのである。

 あるいはもっと恐ろしいことに、「加害者がお金を持っていない」と、仮に民事裁判で勝利して、1億円なり数千万円なりの支払い判決が出たとしても、それを取り上げることはしてくれない。

 日航機の事故のように数千万円の賠償金が出るのは、加害者がお金持ちだからである。つまり、命は「被害者側ではなく、加害者側に価格決定権がある」ように出来ている。

 無一文の者が人を殺しても、賠償額は算出できても、支払いがなされることはないのである。


========

 もちろん、ここで法律学的には、もっともらしい言い訳がついている。たとえば

「被害者の状況や年齢など、補償されるべき金額が違うのだから、それは都度審議されるのは仕方ないだろう」

といったものである。実際、進学校に通っていた生徒と、バカ学校の生徒では賠償額に差がつく。なので「命の値段は平等ではない」のだが、それはここでは脇へおいておいてもよいだろう。

 しかし、加害者が登場した瞬間、自動的に刑事手続は始まるのだから、自動的に被害者側の手続きに入ってもなんら不思議ではないだろう。そもそも刑事手続では、被害者も呼び出され取調べを受ける。自動的に刑事手続に被害者は組み込まれるようになっているのだ。

 ところが、ここで民事手続というか「被害補填に間しての手続」は自動では行われないようになっていることに気づく。

 つまり、国家や政府は、「お金の補償や、被害の補填」については、この段階で「見て見ぬふり、ほったらかし」にするのだ。

 すごくよく出来ている「放置」行為であると思わないだろうか?


 刑事手続が始まれば、それにセットして自動的に民事手続が開始されるようになっていてもよいはずなのに、そうはなっていない。

 やっぱりそこでは「被害者側」のことは、「わざと」ほったらかしにされている可能性がある。

 国は、刑事手続については自動で開始されるようにプログラムしているのに、被害者の救済については、あくまでオプションで、わざわざ訴訟を起こさないと発動しないように設計しているのである。


 そして、さらに恐ろしいことに、加害者の人権については、これも自動的に発動するようになっている。「君には黙秘権がある」なんて台詞は有名だが、そもそも殺された側の人間に「君は生きる権利があったのに」なんて警察は声をかけてもくれない。

 加害者の人権は自動的にスタートするのに、被害者の人権は失われたままなのである。


 なんでこんな不可思議なことが起きるのだろうか?


 なあぜなあぜ?


 そこでよーく考えてみると、この問題が暴き出した「国家や社会」というものの本当の恐ろしさが見えてくる。

 なぜ人は、犯罪を犯せば捕まり、そして罰せられるのだろうか?

 アホな市井の人々は、「被害者がいて、その人に対して悪いことをしたから、罪を得て罰せられるのだ」と思いこんでいるが、それはアホだからかもしれない。

 とても巧妙な国家や社会のワナにまんまとはまっているのだ。

 ワナにはまったままだと、次のように考え、感じてしまうだろう。

「加害者は悪いことをして、被害者に損害を与えた。なので、罪を得て罰せられる。被害者にマイナスが生じて、加害者は刑務所に入れられたり、死刑になったりしてこちらもマイナスが生じるので、結果としてイコールになり、釣り合いがとれている」

という見方だ。


 ところが、この考え方は思いっきり間違っている。


 なぜ間違っているかは、自分が被害者になってみればよくわかる。あなたは愛する妻子を殺されたとしよう。突然妻子が失われて、いなくなる。

 やがて、犯人が捕まる。犯人が死刑になったとしよう。

 しかし、妻子は返ってこないし、人生は取り戻せない。ところが社会的には、犯人が罪を得て罰せられて、イコールだね、釣り合ったね、はいおしまい、と言ってくるのだ。

 は?わけわからん。俺は妻子を一方的に失っただけで、犯人が死刑になろうが知ったこっちゃないから、妻子を返してくれ!

と思うだろう。

 それは正しい。その感覚はまさに正しく、被害者であるあなたは一方的に被害を受けて「丸損」しただけなのだ。なにも釣り合いはとれていない。

 犯人は勝手に悪事をやっただけで、やりっぱなしである。金持ちでなければ被害を弁済することもしない。金持ちであっても、民事訴訟で犯人が負けたとしても、そこから金を取るのは、被害者側が努力しないとダメなのだ。

 なんだこれは?!

 最初から最後まで丸損な社会ではないか。

 

==========

 では、罪と罰の正体はなんなのだろう。なぜこんなおかしなことが起こるのだろうか?

 それは次のような「裏」が隠されていると気づけば、理解できるだろう。

 そもそも、犯罪や罪というのは、私たちは「被害者に対しての罪や犯罪」と思いこんでいるが、それは結果論であり、実は

『国家の統制システムからの逸脱』

なのである。

 国家がコントロールしたいと思っている国家制度や社会体制があり、それに逸脱しているから、捕まえて罰するのだ。

 だから国家や社会への反逆への制裁は、「すべて自動的」に行われる。

 盗みや事故や事件を起こすことは、安寧な社会システムを脅かすから罪なのであって、「被害者」というのはたまたま副次的にその場に居合わせた「おまけ」みたいなものなのだ。

 だから国家や社会は、おまけは「オプション扱い」でしか取り扱わず、おまけの存在への保護は自動的には発動しないようになっている。

「ぎゃあぎゃあいうから、ほな相手したろか」

くらいのことで、犯人を捕まえる本意は「国家システムを脅かしたから」に過ぎない。

 しかし、国家システムを脅かしたからと言って、犯罪者も国民であるから、人権はいちおう守られる。いきなり銃殺はされない、というのがリベラル国家ということになっている。


===========

 では、どうすればいいのか?

 それは国家や社会に「被害者の存在」を認めさせることである。

 「被害者の人権は加害者の権利よりも重い」

ということを、明らかにしてゆくことだ。

 昨今はわずかに「犯罪被害者補償制度」なるものも動き出しているが、それでは不十分である。

 「犯人に殺されたら、1億円くらい国家が毎回支払う」くらいの制度が生まれない限り、被害者は無視される状況が続くだろう。

 その分の1億円を死ぬまで犯人から取り立て続けるような刑罰こそが本当に「釣り合いがとれた罪と罰」なのである。

 妻子を失ってもその分を補填される。金銭では推し量れないという情緒的な気持ちはさておき、社会システムの上では貨幣でしか弁済できないのだから、その分のお金が入れば、「釣り合いがとれた」と言わざるを得ない。

 翻って犯人は「社会システムを脅かした」のだから「罰せられる」のでこちらも釣り合いがとれている。やった行為に対しての尻拭いは、刑事罰によってチャラになるわけだ。

 つまり、ここでは加害者と被害者の関係性は、本来無関係であることがよくわかる。愛憎のもつれの殺し合いならともかく、自動車事故などはまさにそうだ。そもそも加害者と被害者の間に、最初から最後まで関係性などないのだから。


 さあ、犯罪に巻き込まれたら、ただの丸損である。そんな社会は、早く改革すべきではなかろうか。

 このことに気付いた者から、声を挙げていこうではないか。

(おしまい)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?