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フロムで読む「宗教2世」論


 Twitterで以下のようなご希望をもらいましたので、今日はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」をベースに考えてみたいと思います。


 前回はニーチェでしたが、今回はフロムということで、ドイツ哲学者が続きますね。

 余談なのですが、教員時代に「『倫理』の教科書」を執筆している方と同僚になりまして、その方が直属の上司だったものですから、よく飲みに連れて行ってもらいました。

 もう、その先生も引退なさっておりますが、あんまり細かく書くと、お互いに身バレしてしまいます(笑)。教員をしていても、教科書執筆者と一緒に仕事をする機会というのは、なかなかないと思いますので、よき体験をさせていただきました。

 ましてや彼は「倫理」の先生でしたから、どうしても哲学的談義に花を咲かせることになってしまいました。懐かしい思い出です。


 さて本題。エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」とはざっくり言えば以下のようなお話です。

 

wikiの解説が、とても平易な文章で書かれていてわかりやすいので、そちらも合わせてどうぞ。


■ 前近代は封建的であったり、個人は社会に縛り付けられたりしていたが、近代になると「自由」を獲得することになった。

■ ところが、自由とはいわゆる「自立」(自我や責任を伴うもの)ではなく、「ただ放り出された」ような状態になっただけであった。

■ この「放り出された状態」というのは不安に他ならず、何かに依存したい!という気持ちになってしまう。なので、「自由から逃げ出したい」「むしろ縛り付けられたい!」といった変態性を帯びることになった。

■ そこでフロムは、(フロイト系心理学者だったので)サディズムやマゾヒズムの観点も取り入れながら、戦前のドイツ人が「ファシズムやヒトラーの権威主義に従いたい!むしろ、彼にドハマリしたい!あるいは、ユダヤ人を蔑視し、自分より劣ったものを作り出して欲求不満や劣等感を解消したい!」と思うようになったと考えた。

■ これが言ってみれば、せっかく手に入れたはずの「自由からの逃走」である。


という感じです。


 あらまあ!元のツイ主さんもおっしゃっていますが、「縛り付けられていたもの」から自由になったとき、人は不安な状態に置かれます。それはまるで「宗教2世」のようだ、と考えることもできます。

 宗教2世のその後の問題点として「別の依存対象を探してしまう」「あらたな宗教、あらたな救世主を求めてしまう」なんてことも、よく起きがちで、実際にそうした事例が観察されるようにも感じます。

 初期のエホバの証人脱会運動なども「その後、プロテスタント系牧師に改宗した人によって」主導されたりされた例があるように、やはり人は「新たなる依存先を求めて、自由から逃亡してしまう」のかもしれませんね。


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 さて、ではその解決方法です。フロムはそういった状態に陥らないためには、どうしたらいいと考えたのでしょうか?


 さくっと、引用してみます。


” 人は自分の有機体としての成長と自己実現が阻まれるとき、一種の危機に陥る。この危機は人に対する攻撃性やサディズムやマゾヒズム、および権威への従属と自己の自由を否定する権威主義に向かうことになる。

 自分自身の有機体としての生産性を実現する生活こそが、それらの危険な自由からの逃避を免れる手段だと説いた。フロムは、バールーフ・デ・スピノザと同じく「幸福は徳の証である」と考えていた。つまり生産的な生活と人間の幸福と成長を願う人道主義的倫理を信奉するとき、人は幸福になれるとした。 ”


■ 自由からの逃避をやめるためには「自分自身の生産性を実現する生活を送る」こと。

■ 幸福とは、「財産や地位や名誉、褒美や勲章」などではなく、徳の集積そのものである。

■ 最後の項目はそのままの言葉ではわかりにくいので、フロムが使った「所有と存在」という別の語で解説すると

→ 人はなんでも所有したがるが、真の幸福は「所有」にあるのではなく、「存在=体験、経験すること」のほうにある

ということ。

 ■ まとめると、体験や経験を積み重ね、生産的な生活と成長によって、人は「自由=放り出される」のではなく、「きちんとした自我や自立」を得ることができる。


 ……まあ、言ってることはそれほど難しいことではなさそうですね。他者に依存して生きるのではなく、有意義な仕事をしたり、体験や経験を積み重ねて自分でちゃんとしろ!みたいな感じです(苦笑)


 ところが、実はここから先が面白いのです。

 ここまでのお話だと、宗教2世は、いわゆる一般社会に早く慣れて、

ふつうの人の生活のように「仕事や体験による自己実現」をめざしましょう。まる。

ということで終わってしまうわけですが、フロムのその後の著作が続きます。

 で、有名なタイトル「愛するということ」に、入ってゆくのです。



■ 愛は感情ではなく技術。学び、習得し、実践するものだ。

■ 「いかに愛されるか」ばかり人は考えがちだが、そうではない。愛されるかどうかは相手に主導権があるが、「いかに愛するか」はこちらに主導権があり、コントロールできる。

■ 孤独の恐怖から逃れようと人は「同調」するが、それは偽物である。

■ 成熟した愛は、「自分の全体性と個性を保ったまま」でいられる。

■ 愛とは愛する者を尊重し、その生命と成長を気にかけるものだ。それは「特定の人間」に対してのものではなく、世界全体に人がどう関わるか、どう関わりたいかとの意思の問題である。

■ 自分の人生が充実してこそ、他人に愛を与えられる。

■ 未熟な男性は、女性に母親から受けた無償の愛情を求める。これは崩壊した愛だ。

などなど。


 もちろん、フロムの言う「愛」はキリスト教的「愛の定義」をベースにしているところもあって、宗教2世の場合は、そのまま読むとふたたびキリスト教へと回帰してしまうような感覚もあるのですが、おそらくフロムが主張したいのはそういうことではなさそうです。


 つまり、「孤独や不安」から逃れるためには

「自己実現+他者を能動的に愛すること」が大切だ
(自分自身を尊重し、愛し、すなわち他者を尊重し、愛する)

と言いたいのだと思います。

なおかつ、

それは「技術」なので、意識的に身につけられるものだよ!

ということですね。

 そしてそれは単なる自己愛ではなく、

「自分自身の生き方を好きになり、自分自身を認められるように生きよう」

ということに繋がるわけです。


 もう一度「宗教2世」の話に戻りますが、それは「他者が与えてくれるものではない」ということがフロムの主張です。

「自分自身が好きになれる生き方を、他者に求めるのではなく、自己実現に向けて自らの生活の中で組みたててゆこう」

というのです。


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 フロムの場合、ニーチェほどは、「超人になれ!」とハッパをかけられている感じはありませんが、それでも「自己実現しようね」というあたりは、最終的に通じているくるような気もします。

 まあ、「自分は宗教2世である」という”囚われた”段階から、もう少し緩やかに、自分を取り戻す旅に出るような感じでしょうか。

 ただ、ここから先は個人的なムコガワの感想ですが、最終的には「自立」をドイツ哲学は説くわけで、それを「自分の力でやれ」と言うあたりは共通しているように感じます。

 ところが、実際には「愛されることを知らないものは、愛することもわからない」みたいなところがあって、虐待を受けた宗教2世が、どれだけ頑張っても「自動的に他者を愛せる人間になれるか?」という課題・疑問は残ります。それがいくら「技術として習得するもの」であったとしても!

 なので、ずっと私のnoteでも書いているように、「愛とは何か」ということを伝達できる伴走者・支援者みたいな存在は、必要なのではないかなあ、と思うわけで。

 それこそフロムの言うように「愛することを実践できる人」「自由から逃亡せず、自立した人」が、そばにいることで「ああ、こうすればいいのだ」と思えるような支援者が、宗教2世には必要なのではないか、と常に思っています。そして、できれば自分もそうなりたいなあ、と。



(おしまい)


 

 

 









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