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【宗教2世支援者養成講座07】宗教バイアスについて理解しよう


 これまで宗教2世の支援について、いろいろな視点で書いてきましたが、基本的な構造として理解しておくべき考え方に「宗教バイアス」というものがあります。

 この社会には多くの宗教がありますが、既存宗教であっても、カルト的な宗教であっても「宗教バイアス」なるものが、人を大きく変容させてしまいます。

 その影響は、宗教1世のみならず、2世や周囲の人たちにも及びますので、あなどることができません。

 「バイアス」そのものの意味は「思考や行動に偏りが生じること」ですが、「宗教バイアス」とは教義や宗教環境が原因で、「通常ではない、それまでのその人とは異なる思考や行動に陥ること」と定義してもよいでしょう。

 
 家庭環境と子どもたちの関係は、通常以下のような図で表すことができます。


 実の親や、親の配偶者(継父・継母など)あるいは親戚などを含む周囲の人間関係は、何もバイアスがかかっていない状態であれば、そのまま「行為」として子どもに向かいます。

 これは善良なるものも、悪意のあるものも、そのまま行為として子どもに向かいますから、

「親が悪意を持って接すれば虐待(的)」
「親が善意を持って接すれば保護(的)」

といった「ふつうのベクトルの」動きになるでしょう。


 ところがここに「宗教バイアス」が入り込むと少し様子が変わります。


 通常、そのまま保護者等から子どもに向かう「行為」にバイアスがかかりますから、「何らかの変化」を伴いながら影響を及ぼします。

 その「バイアス」の元凶は宗教ですから「教団・教義・信仰・宗教集団」などによって、結果として子どもへ伝達されるものが「変化」してきます。


 たとえば、わかりやすい例で言えば

■ 子どもたちを愛していて、子どもたちに危害が及ぶのを避けたい

という善意がもともと親にあったとしましょう。それが通常であれば

■ 子どもを守りたい


という行為へとつながるわけですが、ここに「宗教バイアス」が加わると


■ 子どもたちを愛していて、子どもたちに危害が及ぶのを避けたい。

■ ハルマゲドンで愛する子どもたちが滅ぼされたくない

■ 教義や宗教行為を強制し、自由を奪う


といったことが生じます。

 バイアスがかかる前の段階では「親の善意」であったものが、結果として虐待やネグレクトを誘発するという不思議なことが生じてしまうわけですね。


 宗教バイアスの難しいところは「親には悪意があるから、悪意ゆえに虐待が行われる」という単純構造ではない部分です。

「親には善意があるから、結果的に虐待を行ってしまう」

という矛盾が、堂々と、信念を持ってなされてしまうところに、問題の難しさがあるわけです。


 しかし、この話を真正面から切り込もうとすると「難問」にぶち当たります。それは

「その教義が本当に正しいのか、それとも間違っているのかを、解き明かさなくてはならない」

という袋小路にはまり込むからです。

 「その教義が間違っているから、宗教バイアスは取り除かれるべきだ」というのなら、とてもスッキリ簡単ですが、教義の是非について討論し始めたら、おそらくどれだけ議論を重ねても答えは出ません。

 親の信仰と、客観的な外部の意見は、常に平行線をたどるでしょう。それが宗教たるものの本質だからです。


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 そうすると宗教2世支援者にまずできることは

■ 宗教バイアスの存在をきちんと把握する。意識する。

■ 宗教バイアスが”もし存在しない場合”は、その親子関係はどうであるかを観察する

ということでしょう。

 親子によっては「宗教バイアスがなくとも、もともと毒親である。虐待傾向を持つ」という親に当たってしまっている場合も、当然あります。(親ガチャ)

 その場合、宗教バイアスは「悪い方に、親子間の虐待を加速させている」ということになるでしょう。

 そうではなく「宗教バイアスがなければ、望ましい親子関係に近い」ということもあろうかと思います。

 その場合は、特に「子ども」にとっては、わずかな救いや希望が隠されている、と考えることもできます。


 もちろん、支援者として一朝一夕には「その親にかかっている宗教バイアスを取り除く」ということはできません。それは、支援者の課題ではなく、その親の課題なので、より一層難しいことと思います。

 しかし、支援対象者の「子ども」(+かつて子どもだった大人)に対して、寄り添う、共感的理解をする際に、バイアスのかかり具合、その状態を意識することは、とても大切なことと思います。


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 さて、余談ながらこうした「バイアス」構造は宗教以外でも見られます。たとえば親が学歴信仰を持っている場合は

■ よい大学に入ることこそが幸せだ

といったバイアスをもって親子関係を構築することがあるでしょう。

 その場合は、子どもたちは、進路選択の自由を奪われて、本来の自分の適正とは関係ないところで、強制的に生きさせられるといったことが起きますね。

 これらの場合も「バイアスがかかっている」という点では同じなのですが、少し「宗教バイアス」と「通常のバイアス」との違いがあるとすれば、

『宗教バイアスの場合は、教義や教団の影響力、あるいは信者集団の圧力などによって、そのバイアスを教え込まれている』

面がとても強い、ということです。


 その親が持つそれぞれの考え方は、「親が自分の生き方などでおのずと到達した考え」であったりしますが、宗教の場合は「親が自分で入信したが、そこから先は教団や教義によって、よりバイアスが強まるように導かれたもの」であることが多いと推定されます。

 この点において、特にカルト宗教における「宗教バイアス」は、外部から見れば

「悪質性が高い」

ことが多いと考えて差し支えないと思います。

(もちろん、その悪質性の判定には十分留意してください。シンプルな見分け方としては”結果として虐待行為に相当していれば、悪質である”という簡易判定はOKと思います)


 こうした宗教バイアスの存在を知っていれば

「ふつうの虐待と何が違うの?どの家庭にもそうした問題はあるでしょう?」

と言った質問や疑問にも、的確に答えることができると思います。

 行為として行われる「虐待」等には似た点がありますが、「宗教バイアス」によってその方向性や加虐性が変化していること、特に「より悪い方向へ強まっていること」などの懸念があることや、「宗教バイアス」によって、より正当化されている恐れがあることなどが、注意点として挙げられると思います。



 今回のまとめですが

「宗教バイアス」が何を加速させていて、何を反転させているのかを考える

ということが、ポイントだということですね。



(つづく)







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