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今日もまた、日本中で物語がはじまったんだろうな

部屋のすみで契約書とにらめっこしていた三年目の平社員が、たった二週間で重役の通訳になるのだから、会社員はドラマだ。

四月一日、新しい部署での仕事は握手からはじまった。その人は、ハイ、と教科書のような聞き取りやすい発音で、私に左手を差し出したのだった。


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以前の業務が好きだった。契約書を読んでレビューしたり、法令改正の対応をしたりするチームにいた。そもそもうちの部署で契約を担当するのは私とリーダーだけなので、来たものは私が全て見て、そしてリーダーが二次審査をする。そんな二人三脚の歩みで、ここまで来たのだった。

法学部出身だからという理由で配属されたが、契約書には読むほどに深い意味があって面白い。似たような要望や反論が繰り返されるので、数をこなすほどに経験値が上がっているのが分かるのもいい。仕組みや制度を考え、それを問題なく運用していく。そういう縁の下の力持ちに、やりがいを感じていた。

いわゆるコーポレート部門、管理部門と言われる社内向けの部署だ。仕事の性質上、その道何十年という重鎮の多い部署というのが第一印象だった。そして、そこにはお調子者はひとりもおらず、淡々とした人、変わっている人、静かな人が集まっているように見えた。

そんな私の会社員人生は、会話とか対話とかいう人と人との繋がりとは縁遠くはじまった。仕事が順当に回っていれば、余計な会話はない方がいいと思っている雰囲気すらあったと思う。明確に言えるのは、チームの誰も出社が好きではなかった。会社に行かずに在宅勤務を続けていてもそんなに支障がない。顔を見せずにオンライン会議を回し、集まるのは半年に一回くらい。

それでも人間関係になんの違和感もない部署が、私にはぴったりとあっていたのだと思う。あの人にどう思われるかなとか、この人は実は私のことを嫌っているんじゃないかなとか。やたらと気を遣い、足元を掬われる職場をバイトやインターンで経験したけれど、総じて疲れるものだ。誰も私に特段興味を持っていない。仕事が回ればみんな中立的でいい人だ。そんな価値観がある、ある意味で自立した組織だった。


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この業務がやっぱり好きだと思っていた三年目の三月。転機が訪れた。

その日は朝から新卒社員の「一年のふりかえりプレゼン」があり、同じチームの後輩が部署の偉い人たちに向かって発表するのをオンラインで眺めていた。後輩はふんわりとした雰囲気を纏う子で、挑戦だとか成長だとかにがつがつしていないタイプ。けれどもその日彼女は、今後は海外プロジェクトに参加したいといった。

あれ、と画面に注目する。以前まで、海外とか興味なかったんじゃないっけ。私は海外にも興味があってこの部署に入ったし、自分でも英語を活用していきたいと思っていたので、急に心がざらりとした。いつの間にかノーマークだったところにライバルが増えてないか。私って、もしかしてもっと頑張らないといけないかな、と。

三年目の私には、本部の偉い人たちの前で自分の目標を堂々と宣言する機会なんてもうない。一年目と三年目。そのときできることは全然違うけれど、数年間の過ごし方次第で、これからその差はどうとでもなるだろう。正直、すこし焦っている自分がいた。本部長が後輩にかける前向きな応援を聞きながら、素直に頑張ってねと思えない自分にも嫌気がさした。

それからちょうど三時間ほど経った昼すぎ、部長からの電話があった。今度来る重役の通訳と秘書をしないか。その人というのは海外業務を担当していたイギリス人なので、まさしく「海外に関わる仕事」だ。通訳なんてできるとは到底思えないが、私のところにそんな話が舞い込んできたことにもすこし浮かれた。

だから、感触を聞かれてなんとなくポジティブなことを答えてしまったのだ。完全に後輩のプレゼンに刺激を受けて、から回っていたんだろう。今思えば全然身の丈に合わない、今の私には到底及ばない仕事だ。一晩眠ったら恐ろしくなって、部長に冷静に考えてネガティブだということを再三送ったが、その時には時すでに遅かった。会社員の歯車が、大きく回り始めていた。


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四月一日、出社。二日、出社、出社、出社・・・・とカレンダーに見たこともないほど出社予定が連なる。全然違う部署の同期からも連絡が来るほどの、生活の転換点だった。頭の中も、英語で埋め尽くされている。

先週の金曜日までは、仕事で英語を話す機会なんて半年に一度ほどだったのに。それが嘘のように、月曜日は朝から晩まで英語を話していた。切り替えができず、日本語を使う部長にも英語で話しかけてしまうほど。脳がショートしたのか、夕方にはお腹がぐうぐうとなって仕方なかった。

何か、また新しい道がひらけていく感覚がある。きっと飽き性な私のことだから、ずっとずっと同じ仕事はできなかったかもしれない。だから業務を楽しんでいる間に、別の道を差し出されたのは、ラッキーだったのかもしれない。どちらにしろやったこともない通訳や秘書を、関わったこともない分野でやっていくのだから、今後泣きながら電車に揺られる夜もあるに違いない。

でも、それでもどっこい、自分は面白がれている気がする。悔しくて何度も思い出して叫びそうになる打ち合わせも、いつかはエッセイにできる気がする。一日の夜には、自分へのご褒美で近所の書店によった。お気に入りの短歌集でも読みながら、今夜ははやく眠りにつこうと思う。



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