見出し画像

優越性の追求はどこまで健全か?

ご無沙汰してます!!

アドラー心理学では

優越性の追求は人間の普遍的な欲求である

と捉えます。
優越を感じること-優越感-は何ら問題ではなく、成長する上で必要なものなんですね。
ところが優越感が大きくなり優越コンプレックスになると問題が発生して人間関係にも支障を来たします。
つまり程度の問題。 程度が低いうちは問題ないが、程度が甚だしくなると危険だという捉え方。

優越感は大丈夫だけど優越コンプレックスになると危険

これは劣等感においても言えます。

劣等感は大丈夫だけど劣等コンプレックスになると危険

ということになります。

で、ぼく

「差別はたいてい悪意のない人がする」キム・ジヘ著

を読みました。
この著書に「能力主義のパラドックス」についての記述があります。
能力主義とは差別主義の対義として出てきます。

「私は男女(※男女に限らないが)の差でなく、能力の差で人を評価しています。」
↑これが能力主義
 
ところが、
自分は能力主義者であると主張している人の方が、そうでない人よりも、男女の違いに固執している。という実験データがあるらしいのです。
 
能力主義を主張している人が不平等な行動をとる
↑これを能力主義のパラドックスと言います。
 
なぜそうなるのか?
「能力主義者は自分は偏っていないと思い込んでいるからである。」と著書では書かれています。
 
つまり、能力主義者は「私は差別をしない人間だ」と思っている。
これは裏を返せば「私は差別主義者より優れている」という優越感を抱いている。
自分は能力主義者だと主張している時点で優劣をつけてしまっている。既に差別の根源が垣間見れるのですね。
これが能力主義のパラドックスが起こることの理由だと思われます。
 

ところが、この能力主義者が優劣をつけてしまっていることが、アドラー心理学の言う「優越コンプレックス」に当てはまるかと考えると、それには無理があるように思います。

「自分は差別をしない」→これはたいていの人間が思っていることで、過度に優越を感じているとは思えないですし

「能力主義者は知らぬ間に優劣をつけてしまっている」と、そのこと自体に気付くことの方が難しい程度の些細な優越感だと思われます。


がしかし、

この些細な優越感が社会全体で考えると「差別」を生んでしまっているのかも知れません。

ひとりひとりが些細な優越感を持っていることが社会全体として大きな力を持ってしまい誰かを攻撃してしまう。

これってすごく大変なことだと思いませんか?
(恐らく、些細な劣等感も社会全体で考えると、被害者側として「差別」を生んでしまっている可能性もあります。)
そう考えた時に

・優越性を追求すること、優越コンプレックスでなく、ごく自然な優越感を持つことは本当に健全なことなのだろうか?

という疑問が出てきました。

そしてまた

優越感は大丈夫だけど優越コンプレックスは危険、、、と言われるように

・優越は程度の問題なのだろうか?
・些細な優越感も時には危険ではないか?

どうなのでしょうか?

ぼく、じっくり考えてみました。
(ここから2~3日悩みました。)

もしかすると、
優越を程度で考えるのではなく
ある優越は建設的だけど、またある優越は非建設的、そしてまたある優越は破壊的、と言うように
優越にはそれぞれの特徴を持った種類があると考えることは出来ないだろうか?

もっと掘り下げてみます。
突き詰めると

「人格(人種や性別、自分では変えようのない事柄)に対して優越を感じること」

「能力(学力や身体能力、成長次第で変えられる事柄)に対して優越を感じること」
より危険である。

と言えるかも知れない。

という結論に辿り着きました。
この結論は今のところの、ぼくなりの結論です。

これは劣等感についても差別の被害者として、同様のことが言えるかも知れません。

アドラー心理学を勉強していて、
優越について、些細な優越感なら大丈夫!! と思っていました。
でも、個人的にはたとえ些細であっても、社会全体で考えると「差別」に繋がるかも知れない。
それは危険なことなのではないでしょうか。
ただ、自己受容はもちろん大事なので
「些細な優越感も危険だ」と必要以上に思いすぎることにも気を付けたいですね。

ありがとうございました!!^^

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?