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自由なお弁当とわたしなりの解決

最近、職場にお弁当を持っていくようになった。前の日の夜に作り置き用のおかずを作って、朝に詰めて持って行っている。
自分の好きな食材やスーパーで見て気になった食材を買って名のない炒め物を作ったり、ざっくりの目分量でちょうどいい美味しさを目指す。ご飯はわさび菜と胡麻を入れて混ぜご飯にしてみたり、ラペを作りたくて買ったニンジンでナムルを作ってみたり(おうちにお酢が無くて作れなかったのでリベンジしたい)。
近くにある簡単に買えるコンビニや少し高くて美味しい外食もいいけど、手作りってやっぱりなんだか落ち着く気がするのは気のせいかな。

そもそも、最初はおにぎりだけ持っていこう、お弁当箱洗うの面倒だし、料理苦手だし、微妙な料理を見られたら恥ずかしいし…と思っていたのだ。それがお弁当作ってみるか!という気になったのは、職場の方たちが持ってきていたお弁当やお昼休憩の様子を見たからだった。
いつもの癖で形から入るのを自然とイメージして億劫になっていたのだが、なんと職場の先輩はタッパーに入ったサラダとハム、大きめのパンと調味料を持ってきていて、お昼休憩になるとお皿を出してサンドイッチを作り始めたのだ!もちろんコンビニご飯を食べる人もいるし、外に食べに出る人もいれば、持ってきたご飯を近くの公園で陽を浴びながら食べる人もいる。みんなそれぞれのやり方で思い思いにご飯を食べていた。

仕事の話ではないのだけれど、今の職場に転職してすぐの時、小さな出来事の振る舞いをどうしたらいいか困っていた時に「なんでもいいんだよ〜」と優しく声をかけてもらったことを思い出した。「自分の本音、本当はどうしたいか言っていいんだよ〜」と言ってくれたこともあったな。

そしてわたしのお弁当はというと、先週はおにぎりかおかずのどっちかを持っていき、今週は先日スーパーに言って買った肉や野菜で作り置きを作ってもりもりのお弁当をタッパーに入れ持って行った。

最初はあまり周りから見えないように開いていたお弁当も、今は気にせず好きなように広げて食べているし、長い時間戸棚にしまってあっていつぶりかに使った黄色いタッパーが先輩と同じものだったり、こっそりお気に入りだった混ぜご飯をいいねと言ってもらえたり、嬉しいことも増えた。

相変わらず先輩たちのお弁当はなんだかカッコいい。栄養や彩りを考えつつ好きな食材とスタイル盛り込んだご飯を模索するのって案外楽しいって気付いて、いいところは真似しながらも自分のためのお弁当を作るとなんだかお昼の時間が楽しみになるね。
あと、いい具合の適当さと美味しさが合わさった手料理がわたしには合うみたい。最近はそれをゆるゆると楽しんでいる。


話は変わるが、今日たまたま見つけたイラストレーターさんの本の挿絵を紹介したインスタに、わたしの脳内に沁みる言葉が書いてあった。
それは、ちきりんさんという社会派ブロガーの方が書かれた『ゆるく考えよう』という本で、本の帯には糸井重里さんのこんな言葉が書いてあった。

あらゆるものごとを、正解ではなくて、解決にみちびいてくれる本。

『ゆるく考えよう』(著:ちきりんさん)の帯コメント:糸井重里さん


この言葉を目にした時、今までの人生の中のいろんな出来事や思考の癖やぼんやりモヤモヤしていたことを思い出して、遠くの記憶とこの言葉の意味することを辿っていた。


わたしはいつも自信がなかった。三日坊主で特に秀でているものも語れるものも無い、会話も人間関係も苦手で、うまく生きられなくて後悔ばかり。ちょっと視線を感じると赤面して汗をかき、手が震えて喉が詰まる。思っていることを言葉にしようと思ったら悲しくなくても涙が流れてしまう。外ではすまし顔をしているが、それは無意識に何もかもとろくて不器用な自分を滲み出さないようにするためだったのかなと思う。おまけに人に影響されやすいし、自分が何をどうしたいのか、意見とか意志とかがよく分からなくなっていた。

こんな感じで、自分の至らなさや後悔は考えなくてもたくさん思いつく。そして去年の夏頃だろうか、色々なことが重なって精神的に沈んでしまった。
そこからは自分を変えなきゃいけないと思って色んな本や思想に手を出しては上手くいかず落ち込んだり、"自分は自分のままで、色んなことにどうやって向き合うか"をわたしなりに模索することが大事だということを頭では段々と理解してきたところだった。


正解ではなく、解決。
この言葉を聞いて、なぜ自分で自分を低く低く見てしまうのかが納得できた気がする。

わたしは変なところが完璧主義なので理想を頭の片隅に置いたり、より良いなと思ったものごとを眺めたり追ったり気にする癖がある。それ自体は多分目指すものを認識する上ではそこまで悪いことではないと思うが、それを自分の中での『正解』として認識し、それとは異なる劣っている今の自分に対して『不正解』、つまり×をつけていたのだろう。
今までずっと上手くいかないことに対して本当はこうじゃないと比較して小さな×をたくさんつけて、そうやって自分を無意識に否定し続けていたのかもしれない。自分のことを自分でなかなか受け入れられないのは、そこと強く結びついている気がした。


ただ、"わたしはわたし。その上でどうするか"という考えは少しずつ理解してきていて、その"どうする"という部分を今回のこの言葉で『正解』に結びつけるのではなく、『解決』と捉えておくことが大事なんだなとわかった。
これはイメージだが、誰かの成功例とか上手な人とか正解を思い浮かべると自分からそこに伸びる道は一本道で、そうではないところは不正解の沼。
一方で理想の解決を思い浮かべると、そこへ辿り着く方法や道順は自分の思うように自由に決めることができ、自分が関わるからこその色が出る。さらに今の状態や万が一違う策に反れたとしてもそれは正解に対した不正解ではなく、評価に関係のない『自分』に変わりないのだ。
例え同じ悩みを抱えていたとしても、正解を求めながら今を不正解と認識し続けることと、今の状態を認めて自分なりに問題に対してより良い解決策を探ることでは、わたしの中では大きな大きな違いがあると感じる。


そして、お弁当の話に戻るが、わたしは解決する方法を探しながらもわたしなりに過ごすことを意識でき始めていたのかもしれない。そこで具体的な言葉の表現を目にして、無意識の中に潜んだ思考にも沁み渡ったのだろう。
身の回りの色んなことは◯×よりも複雑で色んな要素が混ざっている複合体で『曖昧』なのだ。
だからこそより良い解決と思われるものは決まりきったものでもなく、辿り着く手段もやる人によって異なるし、色んな方法を試してみたり、ちょっと参考にしたりして混ぜながら味見しながら作っていくのが楽しいのだ。
まさに、あの時かけてくれた「なんでもいいんだよ〜」という言葉に繋がる。


お弁当作りとたまたま見た本の帯の紹介文が繋がって自分への理解が深まるとは。
ほんと、人それぞれなんだから、わたしがわたしでいることもその中に含まれるってことを覚えておこう。

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