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おかんアートをめぐる冒険

ここで「おかんアート」なのである。
おかんアートとは、昭和の頃の母たちが物の少ない時代に家庭の経済的負担にならぬ材料費で楽しく可愛く生活に花を添える手芸を家事の合間に作っていた。私の個人的な見解だと、こんな説明なんだけど、本当のとこはどうなんですかね。皆さんいろいろな視点があると思うし、当の本人からしたら、またまたいろいろな意見が出そうであるなぁ。

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私の母ももちろん「おかんアート」をめちゃくちゃ楽しんでいた1人であった。
まず私の家庭環境だが、私の家は父が勤めていた大学の関係者が住める大型のアパートだった。4号棟まであり、そこにはうちの父の様な事務仕事の一般家族から大学教授のご立派な家族まで様々な人達が暮らしていた。

今思うと、集合住宅の中ではやはりお母さん同士の繋がりがめちゃくちゃ濃かったのではないかと思う。今で言うママ友というやつだ。
母は近所の主婦たちとやたら「お茶を飲む会」を開催していた。うちの自宅が会場になることもあったが、5人くらいの主婦がお菓子などを持ち寄り、生活のグチや誰かのウワサ話などを延々とする。そんな中で「おかんアート」をしながらお茶をすることもあり、私が学校から帰ってくると、テーブルの上にそれはあった。

ヒモで編まれたフクロウ、花の型のビーズで作られた謎の飾り、軍手で作られた犬の人形、牛乳パックで作られた小物入れ。何かの廃材でできたブローチ。

「これの作り方、○○さんに教えてもらったのよー。」と、それは楽しそうであった。おかんアートは、どこの地域でも根付いていたようで、ネットの無かった時代なのに、あちらこちらで似たような作品が作られている。これは、お母さん同士が互いに作り方を教え伝えるネットワークがあったからなのかもしれない。
あの頃はお母さんチームの中には、ちょっと情報通なセレブママとか手芸に秀でたママさんがいて、新たな手芸を母たちに教え伝えていたことをおぼろげに覚えている。

そんな中、母が所属しているママチームで皆がパッチワークをやり始めた。何やら沼の近くの集会所でパッチワークを教えてくれる先生が週一で来てくれるらしい。皆、色めきたった。
必要なのはハギレと糸と針とワタと…そんなもんでOKな、入門しやすい手芸なのだ。使えるお金が少ない家庭でも、割とやりやすい手芸であった。
母とその仲間たちは夢中になった。お茶の合間に針を動かし、いい感じの布を入手しては皆で切り分けて割り勘した。キルトの書籍も販売されると、皆で回し読みした。

時間がかかる大きなキルトはなかなか終わらないというのが、母の我慢強い性格とすごく合っていたと思う。まだ私が小さい頃は働きに出る母が少なかった時代。家事・育児の合間の細切れになった時間と、小さなハギレを繋ぎ合わせる時間はとても相性が良かったと思うし、褒められる事が少なかった主婦が達成感と賞賛を得られるパッチワークは、あの時代の母達にはベストマッチだったと思うのだ。

時代は今に移って、母はまだまだパッチワークを続けている。
沼の薄暗い集会所で教えていた先生は、ワインとカラオケが好きなお金持ちのオシャレな先生に様変わりしているし、皆でお金を出し合って切り分けていたハギレは、マリメッコの高級生地に変わったり、布だけで作られていたあの素朴だったキルトには今ではキラキラしたラメ糸やビーズ、可愛らしいボタンなど豊かな材料も使われている。

母のパッチワークをざっと思い出すだけで、手芸とそれを取り囲む女性の歴史が手に取るように思い出されるのだ。
今は資材も有り余り、教える側の人間の増加、手芸の手法や情報の多さはあの時代とは比べ物にならない程に増えたけれど、母が「新しい作品が出来た!」と嬉しそうに言って、それが学校帰りのテーブルに置いてある光景はとても豊かな時代であったなぁと思うのだ。

オマケ⬇︎

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母が今でも作り続けているパッチワークのポーチの数々。まだ半透明プラケースに保存してある分もあり、どんどん増殖していっている。
ちょっとした小包と共に送られてきたり、里帰りした時に待たされたり…。楽しく製作しているようなので、断りがたし…。これからも増え続けていくのだろう。

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先生に教わってビーズ細工にも挑戦しているよう。もうとことん、どんどんチャレンジしていってくれ。


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