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【22日目】『あきらめる』とは何か(ジンセイのトリセツ)

◆『あきらめる』は『明らかに見極める』の略だ

 今回は「許す」ために必要なツールの一つ

『あきらめる』

ことについての話です。

 「あきらめる」と聞くと、ものすごくネガティブなイメージを持つんじゃないかと思います。たとえば2021年の甲子園中止……球児たちは二度と来ない晴れ舞台を「あきらめ」なければいけなかったわけです。きっと心労でげっそり痩せてしまうくらいがっかりしたんじゃないかと思います……本当に気の毒です。
 ですが、ここでいう「あきらめる」は、もっと深い意味なんです。そういう「がっかりするあきらめ」というものも「含む」のですが、この『あきらめる』というのはもともと仏教の言葉で、本来の意味は

『明らかに、見極める』

ことを指すのだそうです。明らかに見極める、略して「あきらめる」という意味なのだ、と僕が若かった頃教わりました。

 考えてみると、世の中には「よくわからないもの・人」がいっぱいあります。よくわからない、という状態は「恐怖」を引き起こすものです。恐怖の気持ちは【好き嫌いゲージ】が嫌い側マックスまで下がっている状態でしたね。これは「モト不足」を表していて、『幸せ』と真逆の状態です。
 こういう「よくわからない」状態を「よく観察して、本質を明らかに見極めていく」ことこそ『あきらめる』の本来の形です。その結果として何かを「手放す」こともあることから、現在の意味に変わっていったのだそうです。


◆他者を『あきらめる』ことで「恐怖」から逃れる

 前回のお話にあったように、何か・誰かを許すためには一度自分のモトを相手に与えないといけません。そうすると当然モトが減るので好き嫌いゲージが下がります。好き嫌いゲージが下がるので少しイヤな気分が出てきます(カラダを使うので疲れを感じる、という「イヤさ」もあります)。
 こういう「マイナスの気分になることを自らの意思でする」(許す)ためには、まずはその相手が「どういうものか、どういう状態か」を『明らかに、見極める』(あきらめる)必要がある、ということなのです。

 ですから、自分に文句ばかり言う人や、周りに迷惑ばかりかける人、キッチンに突然出てくる謎の虫(イニシャルGとか)など……こういった「よくわからない何か」を「あきらめて」=「明らかに、見極めて」いくことでまずは「恐怖」から逃れましょう、ということなんですね。そうすることで初めて、それらを「許せるかどうか」考える余地が出てくるんだと思います。

 初級編で恐怖心について書いたとき

『怖いものは、見つめると消える』

【14日目】「恐怖は見つめると消える」という話と『あの昆虫』の話
https://note.com/munchausen/n/nb40bb7828117

と書いたのですが、覚えていますか? そのとき書いたプロセス

『相手をよく観察して、それがどういうものなのかを「アタマで」とらえ直す』

上級編・【14日目】)

これこそが今話している『あきらめる』という「行為」の具体的なやり方だったんです。


◆『自分自身』を知ることと「あきらめ」

 またそういった「よくわからないもの」の中には、先ほど書いた「自分の外」にあるもののほかにも、「自分の中」にある

『自分自身』

というものも含まれます。あなたは『自分自身』を「明らかに見極めて」いますか? これはなかなか、難しいのではないかと思います。

 特に、人によっては自分自身について「許せない」こともたくさんあるんじゃないかと思うんです。

  • ついダラダラ過ごしてしまうだらしない自分が許せない

  • つい人に甘えてしまう自分が許せない

  • つい人の悪口を言ってしまう自分が許せない

  • 病気がちな自分が許せない

  • 太っている自分が許せない

 このように色々な「自分の許せなさ」がありますよね。こういうものも「よくわからないもの」の一つです……そもそもなぜ「許せない」のでしょうね。

 また仏教の話で恐縮ながら、こういう言葉があります。

「馬を水飲み場に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」

 これは、僕たちが他人にできることは「水飲み場に連れて行く」ことまでで、そこで他人が「水を飲むかどうか」は僕たち自身にコントロールできない、ということを表しているんだそうです。
 僕たちは実は、絶対に他人をコントロールできません。それはここが【地獄】だからです。僕たちは地獄にいる間、相手が「自分と同じ命のカタマリのいち部分」だと認識できない、と前に書きましたよね。他人は他人だ、ということです。

 逆に考えると「自分の中」は自分にしかコントロールできません。ですから、自分の中にあるものがどんなものかを、僕たちは

自分自身で「あきらめる」必要がある

ということが言えます。

 最初のステップは、ここにあります。まず自分自身をしっかり明らかに見極めていかないと「幸せ」なジンセイにはどうしてもたどり着けないのです。


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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)