見出し画像

拙作『3大シズ作品』についての備忘録的解題

かつて「石津銀夏」という漢がいた…(注:ギンギンに存命です)。彼は「信号機」が趣味という特異な漢であった(確かに信号機の製造メーカーや種類等について、ディープに調べてみると、慮外に興味深い知識を得ることが可能である)。
さて、石津銀夏→イシズ、信号機→シンゴウキ、…として、表層のエッセンスを抽出した新たな概念、そして、そのコンテキストの構築/脱構築と異化を試行した一連の私的創作実験こそ、『3大シズ作品』と呼称される拙作群である。「イシズとは何か?」「シンゴウキとは何か?」…。作中で絶えず行われる、この普遍的な「問い」こそ、すなわち「人生」なのだ…(?)。
…と、まあ「人生」は少々言い過ぎであるが、確かなことは、当シリーズの作品には知覚しにくい「裏テーマ」のようなものが存在し、それが各々の作品、また、作品相互を通貫する構造、そしてフォームに作用している…ということである。曲中のマテリアルやメソッドは、それらを実現するためのアイテムに過ぎない(とはいいつつ、シュルレアリスム的な様相を呈していることは否定できない)。
しかし、当シリーズの作品は、そのような作曲上の「裏テーマ」など知らなくとも(なんなら石津くんの存在自体をしらなくとも)普通にお楽しみいただける内容に仕上がっているのではないかと思う(実際に石津コミュニティ外の方にも数々の好評お言葉をいただき、望外の喜びであった)。少しでも興味を抱いてくださった方は、こんな自分語りのポエム…もとい、作品解題…はすっ飛ばして、是非YouTubeのリンクをクリック!していただきたい。
…とは言いつつ、このテキストでは、これら一連のシリーズの、および各々の楽曲のコンセプトを解説しているわけであるが、なぜ今日、このタイミングで執筆しようと思い至ったのか、それは、すでにこのシリーズが、ひと段落ついた後であるからであり(すなわち、我々の人生が次のステップに進んだことを意味する)、ゆえに、書き記しておかないと私自身の記憶も後々だんだんと朧げになっていく…恐れがあるからである。そう、これは私的備忘録なのである…。

※ここから先の文章は、著者本人も時折、自分が果たして何を言っているのかわからなくなりそうになりながら執筆した、冷静に考えてみると意味不明な箇所が、散見されたり、されなかったりする。まあ、それもまた「イシズ」なのである…(?)


①モノドラマ《イシズとシンゴウキ》Op.142(?)

まず初演前後に書き残していた2つのテキストを引用し、以下に示す。

▼演奏会当日のプログラム・ノートより

〈前略〉
私は、一種の「コンセプチュアル・アート」として、この作品の概念上のテーゼ(テーマ)を策定した。故に、一見、抽象的で、意味がわからないアクションの羅列のように、この作品は捉えられるかもしれない。しかし、同時に「テーマ」から抽出したいわば「モティーフ」の音楽的構築も試みており、その分、コンセプチュアル・アートと自称する割には、前時代的であるがために、コンセプトが露見されかけてしまい、前衛性を放棄しているともいえる。
〈後略〉

▼初演終了後に作成したテキスト

作曲者の見解を一応、ここで書き出してみる。しかし、この解題をご覧頂かなくても作品自体はお楽しみいただけるであろう。
この作品では、「イシズ」及び「シンゴウキ」というキーワードが、ニュアンスは変化しながらも絶えず提示される。では、この作品において、「イシズ」とは何だろう?「シンゴウキ」とは何だろう?
私は「イシズ」とは、「自分が自分であること」のメタファーだと思う。確立された自己、すなわちアイデンティティ…。
冒頭で「ぼくはイシズです。」と宣言され、確立されていたはずの自己は、徐々に揺らぎをみせる。そして、ついには、指揮者により、「ぼくはイシズですか?」と疑問形にて再提示される。
さて、まずはここまで理解していただくと、次に展開される塾長のくだりが、また別の意味合いを持ってご覧いただけるかと思う。
では「シンゴウキ」とは何か。これは「イシズ」が愛するもの、もしくは願望、欲望のようなもの、であると私は考えている。しかし、いくら愛があるとはいえ、どこまで行っても「自分自身」ではなく「他者」であるに過ぎないのだ。
人間誰しも「自分以外の誰か」になりたいと願う時があると思う。しかし、いくら願っても自分は自分であり、その根源的なものは変えることができず、脱することもできない。それを認識し、認めた上で、自己を確立することこそ本当に必要不可欠なことではないだろうか。
作中中盤では、その現実を受け入れることができなかった「不良なるもの」を栗田くんに演じていただいている。彼によって、いわゆる「アイデンティティ・クライシス(崩壊)」が引き起こされる。そして、しばらくの葛藤の後、指揮者によって「ぼくはシンゴウキなんだ!」と宣言され、「シンゴウキ」確立の後、曲は閉じられる…かのように思われたが、やはり自分は自分であるのだと「石津くん」によって「イシズ」であることが宣言され、本当の終わりをむかえる…といった次第である。終わりをむかえるというよりは、最初にループしてしまう、といった方が正しいのかもしれないが…。
いろいろ語りすぎてしまったが、あくまでこれは作曲者の見解に過ぎない。是非、ご自身の「イシズ」及び「シンゴウキ」を見つけてください。

▼2つのテキストから導かれる要点

『この作品は、抽象的で、とてもわかりにくかもしれないが、「裏テーマから抽出したモティーフのようなもの」が存在し、それを音楽的に構築している。それこそ、すなわち「イシズ」と「シンゴウキ」の対比と統合のプロセスなのである』…という主張を上記のテキストから導くことができる(余談であるが、冒頭のピアノのcadenzaに、この後に楽曲が辿ることになるストーリーの予告を全て提示してある)。

念のため、上記の内容を、さらにわかりやすくまとめておく。さすれば…
・「裏テーマから抽出したモティーフのようなもの」=「イシズ」と「シンゴウキ」
・音楽的に構築している=対比と統合のプロセス*
…という2つのポイントに還元することができる。

*尚、二項対立と統合を実現するために、音楽構造を古典的なものから援用したのであるが、それが結果として、マテリアルと相まったシュールな「持続」がうまれる要因となったのだと思う(そして、その後、異化される)。ちなみに、「古典的」という言葉が出たついでに、特徴的な2つのアリア間の調的関係性についても述べておく。2者のうち、〈イシズのアリア〉はF dur、〈シンゴウキのアリア〉はe mollである。すなわち、後者は、前者に対して導音的に作用していると考えられる(すなわち、シンゴウキからイシズに解決するわけであるが、これは楽曲自体が最後にたどり着く結論と一致する)。

▼総括

「シンゴウキ」は、「イシズ」に対してドミナントとして作用する。


②無伴奏イシズギンカのためのソナタ

上記、《モノドラマ《イシズとシンゴウキ》Op.142(?)》の独奏版。すなわち、奏者は1人で「イシズ」と「シンゴウキ」の対比プロセスを形成し、それを演じることを求められる。しかし、結論は微妙に異なり、奏者はアイデンティティを喪失した状態…すなわち、解決が見られる前の状態に留まるように強いられ、それは発狂という形で爆発する。そして、このフラストレーションを抱えたまま、以下に続く《石津讃歌》に突入するのである(もちろん単品での演奏も可能)。


③石津讃歌

▼本文

前々作《イシズとシンゴウキ》で、たどり着いた結論…、「イシズ」。その存在を強調するかのように、楽曲中は常に「イシズ」を賛美する内容に留まっている*。そう、まるで、この世の全ては「イシズ」であるかのように…(曲中における「イシズの死と復活」も、それを助長させている(?))。
しかし、最後の最後で重大なアクシデントが発生する。つまり、《無伴奏イシズギンカのためのソナタ》で呈したように、実は「イシズ」は、完全なる統一を果たした…というわけではなかった!そして、ついには、「イシズ」自体が内部分裂を起こしてしまう!
そして、楽曲、および『3大シズ作品』のサイクルは、「?」を抱えたまま閉じられる…。のであるが、勘のいい方はお気づきのことであろう…。物事がこのような移ろいのプロセスを辿ることは、「よくあること」なのだ…。

*尚、初演当日は、プログラム・ノートに「石津銀夏年表」という、「イシズ」を賛美するために、「石津くん」本人が夜な夜な作成した怪しい冊子の挟み込みをおこなった。ここまで来ると賛美を通り越して、ただの狂気…。

▼総括

かつてアルノルト・シェーンベルクは、自らの語法を「無調」ではなく、「汎調性」であると主張した。私もそれにあやかって、自らの語法を「汎調性シズ」と呼びたい(シェーンベルクに謝れ)。


⓪番外編:石津和声

上記『3大シズ作品』には該当しないが、拙作《石津和声》についても、ここで私的要点を述べておく。
当該作品には、タイトルに「和声」という言葉が付されている。そもそも和声とは、「音楽的文脈において有機的な和音連結を実現するための一種のメソッド」である。すなわち、ここで提唱する「石津和声」とは、「イシズ的文脈において音楽を構成するためのメソッド」なのである。演奏のプロセスの中で、各奏者が「イシズ的に選択した諸音の連結」が、ある種の「カデンツ」を形成する。
…とはいいつつ、実際に使用されているマテリアルは「シンゴウキ」にまつわるものに限られ、実際として「○☆*=シンゴウキ」という、コンテキストの脱構築、およびその異化のプロセスと、新たな方程式の成立…に、重きが置かれている(『3大シズ作品』では、「イシズ」および「シンゴウキ」という単語を、その本来の意味を微かに内包しつつも、とある特定の事象を表すために、より利便性を高めるためだけのために…たとえば、計算をする際に、最終的に求めたい数字を仮にxとyに置き換えておくかのようなノリで使用しているが、《石津和声》では、より濃く本来の語のニュアンスが顕現している)。
ゆえに、確かに「イシズ的」ではあるが、別に《石津和声》というタイトルでなくても、よかったのではないか…と、思わなくもない。しかし、他にいいタイトルを思いつくわけでもないために、現状このような形に落としている。
《石津和声》にとってかわるナイスなタイトルを思いついたという方!是非ご一報を!
追記:“Etude for Deconstruction in Context”…なんて、なかなかいいと思いませんか?(普通すぎるか…)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?