①「先生が教本を読まない」ということについて考える

この一年ほど楽器を教える知人友人に説き続けてきたこと、それは「使っている教本を読もう!」ということです。これは比較的初心者のヴァイオリン指導をする場合に大切だと思っていて、それについて数回に分けて書いてみたいと思います

初めてヴァイオリンを習う生徒にどの教本を使うかという問題があります。このことを身の回りにいる弦楽器の先生や、オケの仕事などでお会いした弦楽器の方などにたくさん尋ねてきました。

「なぜその教本を使うのか?」と訊ねると、大半の人から「自分が子供の頃にその本で教えられたから」という答えが返ってきます。(不思議とピアノの先生の方が様々な教本を検討していることが多い。)そして「どのように教わったか覚えているか?」という質問に「はい」と、答えた人は少数でした。5歳の頃の話ですからこれは当然です。さらに「使っている教本をよく読んだことがあるか?」という問いに対して、「ある」と答えた人はこの1年間でたった1人でした。

かつて自分も教本をよく読まずに、幼いころに習い覚えた曲を感覚と記憶を頼りに教えていた時期があります。ですからある程度予想はしていましたが、それにしても驚くべき結果です。ですがこれをもって「いかに適当に教えている先生の多いことか!」と結論付けるのは早計ですし、ましてやいい加減な先生が教本を読んでいるかいないかを論ずるのは無意味です。そこで逆説的ですが「教本を読まなくても教えられる」一般的な理由を考えてみました。

理由1.教本や曲が生徒を指導するわけではなく、先生の何らかの長所が生徒を伸ばすものだから。
理由2.多くの実験をして答えを出しながら教えているから。
理由3.そもそも教本が、著者の長年の経験の蓄積をもとに書かれたもので、それに沿って取り組めば、段階的に進歩できるようになっているから。

他にも理由はありそうですし、個別の事情も多くあると思います。しかしいずれにせよ教本を読まなくても一応はレッスンをできるのです。ではここでその問題について考えてみます。

まず理由1については、これは指導の神髄であると思います。と同時に誰しも客観的に自分の良き資質を理解し指導に役立てるのは難しい。これは大事なことですが、今日のトピックと離れるのでここでは論じません。
理由2の実験は良いことですし必要です。問題点は生徒を混乱させうることも一つですが、何よりも一つ一つ経験を蓄積していくことには膨大な時間がかかることです。レッスン時間も人生の時間も貴重です。誰かに訊けばすむことであれば一から実験しなくて良いのです。理由3につながってくるところですが、先人のおびただしい実験の成果がメソッドとしてまとめられ教本になっています。これは教本を眺めただけでは理解できません。しかしよく読むと、教えるべきポイントと著者の考え方のパターンが読めてきます。良い教本は正しく使えば成果が得られることはある程度歴史が証明していますが、先生がよくポイントを理解していなければ生徒はどこかでつまずくでしょう。

日本ではヴァイオリンの場合、メジャーなものは、「鈴木鎮一ヴァイオリン指導曲集」「新しいヴァイオリン教本」「篠崎バイオリン教本」の3つがあります。(「鈴木」は文字での補足説明が少ないことと、いくつかのポイントが複合的に現れることが多いので、音符を読んで意図を良く考える必要が特にある。機会があれば次回以降に書いてみたい。)いずれの教本を使うにしても、その本の著者の長年の研究の成果を読み取って教えなければ、残念ながら人類の時間の無駄ではないでしょうか。

だれしも過去に自分がどう習ったかの記憶を辿るところからスタートします。その上で自分なりに色々考えるでしょう。そしてより良く教えるにはどこから学べば良いのか。信頼できる先生のレッスンを見させてもらうことは素晴らしいことですが、単発のレッスンを見学しても体系的には吸収できません。YouTubeの教え方を説明する動画は画期的です。しかしいい加減な先生でも投稿できるので玉石混交です。教本は誰でも手に入れることができて、よく読めばかなりの知識を体系的に得ることができるのです。

「バイオリンを弾けるようになる」という、非常に漠然としていてかつ常識的なイメージを持って初歩のレッスンはスタートします。まるで幼児に「日本語を人並に修得させる」と言うと、漠然とした目標のようですが、同時に誰もが常識だと思っているのに似ています。これを周到にステップを用意して導いてやる必要があります。違いはありますがそれを明確な論理性を基に組み立てられているのが上記三冊の共通点で、時の試練を経て今日に生き残っている所以だと思います。

次回はもう少し具体的なことがらを書いてみたいと思います。

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