インターネットにおける議論ごっこの性質について――温泉むすめへの批判の観察

はじめに

 この文章の話のタネはこのあたり。

【温泉むすめバッシング】仁藤夢乃氏、女性声優も叩きの標的にしてしまう。
【唖然】話題の温泉むすめ、なんとR18絵師が名義も変えずに堂々と参加していたことが判明。許されざる暴挙であるとして批判が続出。【マナー違反】

 話としてはありふれていて、温泉地ごとに女の子のご当地キャラを作って地域振興しようという企画が、女性の性的搾取だとして批判されているというやつだ。こんな話最近ではいくらでもあるので今更ではあるのだが、批判者のツイッターをぼーっと眺めていたらちょっとおもしろい批判の手法的なものを見つけたのでまとめてみる。

論点の整理と僕の意見

 上に貼ったURLの1つ目はまあ置いといて、2つ目をざっと見てみると、3つの論点が混在していることがわかる。

①R-18作家が同じ名義で全年齢コンテンツに参加していること
②その作家が仕事に使っているアカウントにR-18の二次創作イラストを載せていること
③その作家が描いた温泉むすめのキャラクターに不自然な性的記号表現があること

 一応僕の意見としては、①と②に関しては作家本人・仕事の依頼者・版権者が良し悪しを判断すればいいことであって、外野が文句を言うようなことではないと思う。ツイッターにはセンシティブ投稿の設定があって一応ゾーニングはできるし、それこそ職業差別になりかねない。不安定なフリーイラストレーターの場合、二次創作も含めた仕事やイラストの実績は分散せず1つの名義にまとめておいて、少しでも次の仕事につなげたいという気持ちも理解できる。

 ただ③の批判に関しては割と同意できる。やり玉に上げられているのは「スカートが鼠径部の形を強調する形で不自然に張り付いている」という点だが、これは完全にエロの文脈で発明された表現技法だろう。だってエッチだもん。こういった「リアリティには欠けるけどエッチだからOK!」という類の表現は、この国の長きHENTAIの歴史の中で開発され続けている。「乳袋」なんかが有名だ。しかしこれが「OK!」になるのは、観る側がエッチなものを求めている時だけだ。エッチなものを求めていない人にとっては、ただの不自然さだけが残る。エッチなイラストを見慣れたオタクだけでなく子供連れの家族なども目にするキャラクターにこういった表現を入れることについては、僕は効果的ではないと思う。実際不自然なのは確かだからね。

 でもこのことから「R-18描いてるやつなんて使うな」という話に繋げるのはかなり短絡的だ。これは「表現の取捨選択がうまくいっていない」という作家の技量の問題であって、「R-18作家と全年齢作品の関係はこうあるべき」なんて話の根拠とするには弱すぎる。この点に関しての批判は、作家ではなく監修の不十分さに向けられるべきだろう。担当者が「めっちゃ可愛いんですけどちょっと子供にはエッチなので鼠径部隠してください!」ってリテイク出せば解決したはずだ。R-18作家はなんだかんだでKAWAIIの求道者でもあるわけで、その全年齢向けの魅力を抽出すればきっと良い全年齢向けコンテンツも作れるだろう。この辺は作家とのやりとりをする担当者の腕の見せどころなのではなかろうか。

飛天御剣流・九頭龍閃

 長々と意見を述べてしまったが、今回特に書きたいのは批判の内容についてではなく、批判の方法についてである。

 前項でまとめたように論点は3つあるのだが、驚くべきことに、言い出しっぺの本人はそれを全く整理していない。あたかも一連のひとつの批判であるかのように主張しているのだ。

 その批判の調子を見ていると、どうやらこの批判者は「複数の論点のうちどれか一つでも通れば相手は即死して、自分が全面的に正しいことになる」とでも思っているように見える。思い返せば、この傾向はインターネットにおける様々な議論ごっこにおいてよく見られるものではなかろうか。だらだらと連想ゲームのように批判の焦点をすり替えて、そのうちのどれか一つでも相手を言い負かせたら批判者側の完全勝利とする。そんな意味不明な特殊ルールが採用されているようだ。

 まるでこれは、九つの斬撃を同時に繰り出し、どれか一つでも当たれば相手は死ぬあの技・・・


                壱          飛
            捌       弐      天
     九                     御
     頭     漆       玖       参    剣
     龍                     流
     閃      陸        肆
     !!!!          伍


議論とインターネット議論ごっこの決定的な違い

 インターネットにおける議論ごっこは一部の稀有な例外を除き、往々にして「相手を言い負かすこと」に主眼が置かれている。「レスバ」なんていう言葉が広く使われるようになったことからも明らかだろう。先程見た九頭龍閃は、まさに相手を言い負かすためのレトリックである。数撃って煙に巻いても勝ちは勝ちなのだ。

 この言い負かすことへのこだわりはつまり、「何が正しいか」よりも「誰が正しいか」を重要視しているということを示している。断言できるが、まともな知識人ならこんなことは決してしない。どう考えても「誰が正しいか」より「何が正しいか」が重要だからだ。

 議論とは、相手と共に「より正しいこと」を探す共同作業である。相手と戦うものだという認識は根底から間違っている。つまらない自尊心を満たすために相手と戦っていると、どんどん自身の考えに固執してしまう。思考の自由を自ら手放しているようなものだ。これでは、より正しいことに近づくために自身の考えを修正していくことなど決して出来ない。そもそも「どちらかの主張が正しい」という保証すら無いのに、勝ち負けを決めて満足する行為に何の意味があるというのだろうか。真理に至る道筋としては、あまりにも無駄な遠回りである。

 今日もくだらないごっこ遊びに、ひとつのコンテンツの存亡が託された。

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