勉強嫌いを量産する「比較」「テスト」

世の中の人々に勉強が好きかどうか、アンケートを取ったらどのような結果になるのでしょうね。多くのお父さんお母さんが「子どもが勉強しなくて…」と嘆いているという状況(それも本当かどうか…)を考えると、勉強大好きで学習意欲に満ちた人というのは割と少数派のような気がします。「勉強」とひとくくりにしてしまいましたが、学校の勉強は嫌いだけど好きなことに対してはすごく熱心に学ぶとか、逆に受験や資格試験の勉強には燃えるとか、いろんなタイプの人がいるかもしれません。

勉強が好きか嫌いかというのは、おそらく幼少期や小学校頃にはその傾向は見られるように思います。幼い頃からテストの成績で他人と比較され、出来不出来がクラスの中でもなんとなくわかるようになります。世の中に勉強嫌いな人がたくさんいるのだとしたら、おそらく「テスト」と「比較」というのがその原因なのではないかと思います。そして、親や周りの大人に「やれやれ」と言われる、だから嫌いになるのでしょうね。もし、勉強から「テスト」「比較」「やらされる」ことがなくなったら、もっと勉強が好きな人が増えそうですし、積極的に学んでいく姿勢が育まれるのではないかと思います。前回の試験勉強は作業、本当の勉強は独学という記事にも、似たようなことを書いています。

テストがあったとしても、まるっきり純粋にその人の理解度や習熟度を測るためであれば、そこまで嫌いになることはないかもしれません。年齢が高くなるにつれ、その人自身の習熟度を見るというよりも、他者との成績の比較の意味合いが強くなってきて、テストが憂鬱になったり、点数に落ち込んだりして、精神的に良い影響を与えません。優越感、劣等感を植え付けたり、選民思想の元凶にもなるので、テストの成績で序列をつけるというのは、根本的に誤った教育なのではないかと思っています。私達はあまりにもそれに慣れすぎていて疑問に感じることもあまりないのですが、そういった思考停止・洗脳こそ本当に恐ろしいものだなと感じます。

学生時代は勉強ができるかどうかという序列がありますが(それ以外にもありますね)、社会人になると年収の序列があるように思います。高給取りの人は割と世の中でも偉そうにしている感じがします。また、インターネットが普及した昨今では、フォロワー数の序列もあるらしく、「インフルエンサー」と呼ばれる人の中にはフォロワー数の少ない人を見下すような人もいるそうです。何でもかんでも「比較」「序列」です。その原因の一つは、小さいころから勉強の出来不出来による「比較」「序列」に慣れ親しんでいるため、何においてもそうせずにはいられなくなってしまっている心の貧しさにあると思います。

誰もが知っているSMAPの『世界に一つだけの花』という歌。この曲が流行ったのは、やはり曲の歌詞が人々の心に響いたからというところが大きかったのではないでしょうか。あの曲の内容が真理であり、そうありたいと誰もが心の奥底では願っているけれど、実際は他人と比較しては優越感、劣等感を感じながら生きている人が大半なわけです。成績を測られ、他人と比較されて気持ちの良い気分でいられる人は、本当の意味では一人もいないと思います。いくら成績が優秀でも、上には上がいるし、常に一番というのはあり得ないからです。人々の心が豊かでいられないのは、常に「比較」する心があるからではないかと思っています。

世界を見渡せば、文字が読めない人、自分の名前も書けない人がたくさんいます。誰でも教育を受けられる、勉強ができるというのは世界的に見てもとても恵まれた環境です。その気になればいくらでも勉強して、才能を伸ばすことができるのに、それを阻んでいるのが「テスト」「比較」を中心とした教育なのではないでしょうか。それは勉強嫌いを量産するだけでなく、人々の心までも貧しくしてしまっていることがとても残念です。テストの成績云々、いい大学云々という尺度ではない、別の観点での賢さや知性といったものにも、目を向けていく必要があるのではないでしょうか。

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