「苦手」を切ったら道が開けた

向き不向きとタイミングの記事にも書いたのですが、人にはやはり生まれ持った得意なことや苦手なこと、好きなことや嫌いなことがあり、「苦手を克服」しようとするよりも、「得意を伸ばす」方がよっぽど楽で、それこそが自分の生まれてきた目的や果たすべき役割に近づくヒントであるということを腑に落としてきました。スピ好きにありがちなことかもしれませんが、何か抵抗があることや苦手だなぁと感じることがあると、つい「ブロックがあるのだ、手放そう」と思ってしまうものですが、それはそれで良いとして、そのブロックに気づいたからと言って、それが得意になるってことはなかなかないだろうと感じました。

例えば、私は人に何かを売り込むとか勧めるというのがとても苦手で、就活でも営業は受けませんでしたし、ガンガン前に出る自己アピールも超苦手です。私だけでなく、日本人全体として苦手な人の方が多いかもしれません。そういったことに適性はないと感じますが、逆にコツコツ何かを書くとか、ノートをまとめるとか、分析するとか、文章を書くとか、じっくり話を聞くとか、そういったことは得意なので、特に意識せずとも自然にできる分野です。「ライターになる!」と決めたのも、文章を書くことは苦ではないし、好きで続けられることだと思ったからです。

人に何かを売り込むとか、アピールすることに抵抗があるのには、確実に何かブロックがあると思います。それを瞑想やワーク、フラワーエッセンスなどで手放していくことはできると思いますが、抵抗感がなくなりニュートラルになることはあっても、好きで得意になるということはないと思います。多少なりとも抵抗なくできるようになれば楽なので、ワークする意義はとてもあると思うのですが、「ブロックを手放してバリバリの営業マンになろう!」というのは無理な話だろう、と思うのです。そもそもやりたくないことなのですから。

「苦手を克服」することに価値がないとは言いませんし、生きやすくなるために「苦手」から「普通」にすることは比較的簡単ですので、内観してブロックを手放していくのはとても意義があると思います。それでも思うのは、その方の生まれてきた目的や役割というのは、苦手なことの中にはないってことです。もともと好きで得意でやれることの中にヒントが隠されている。だから、極端な話、「苦手」なことはどんどん切っていってオッケーだと思うんです。私も、今まで散々苦手なことをやろうとしてエネルギーを消耗していましたが、やはり好きで誰に言われなくてもやるようなことの中に、私のこの世での役割が隠されていると思ったんですね。そう思うと、かなり生きるのが楽ですし、苦手なことを無理に克服していく必要はないのだろうな、と感じます。

無理に苦手なことに立ち向かっていかなくても、好きなことややりたいことだけでも12足のわらじくらいは履けそうなので(人は12足のわらじまで履ける参照)、徹底的に好きなこと、やりたいことだけをやっていくということが、楽に本来の自分を生きるカギなのかなと感じます。思い切って、苦手でやりたくないことはそういうことが好きで得意な他人に任せるとか、誰かと協力しながら進めていけば良いのではないでしょうか。私はなんでもかんでも自分でやりたいところがあったのですが、これからはやることを減らして、好きで得意でやりたいことに特化し、注力した方が良いだろうと感じています。

以前よく書いていた共同創造の時代に突入していくにあたっては、すべての人のベストな資質をいかに生かしていくかというのが重要になってきます。一人一人が好きで得意でやりたいことだけをしていって成り立つ社会にするためにも、苦手なことを無理にやろうとするよりも、得意なことに特化していった方が、みんながみんな幸せで楽しく生きられる社会になるのではないでしょうか。一見わがままのように思えるかもしれませんが、思い切って好きなこと、得意なこと、やりたいこと「だけ」に特化した方が、かえって素晴らしいその方の才能、能力を開花させることができるのだろうな、と感じました。

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