楽しかったことが「義務」になるとき

昨日は恒例の自然医学の講座の日。そして翌日はだいたい気づきをnoteに書くというのがお決まりになりつつあります。毎回本当に深い学びがあって、楽しすぎる講座なのですが、昨日は私が一番興味のあるカウンセリングの実践の講義がありました。私が習っているのは一般的なカウンセリングとは違う、本質的な、根本的な気づきと癒すを促すような技法で、自分で習いながら、そしてフラワーエッセンスのモニターさんにセッションを受けてもらう中でもその効果や変化を日々実感しています。

昨日は受講生同士でカウンセリングをして、観察し合うというワークをしたのですが、自分がクライアント役(相談者)になるときに、何を話そうかなーと思って瞬時に選んだテーマが、「はじめは楽しいと思ってやっていたことが、大抵いつしか義務的になってしまう」という悩みでした。このnoteもエンタメブログもハーブなどの勉強も何でもそうなのですが、はじめは楽しくて始めたのにいつしか「○○しなければならない、やらなきゃ」みたいになって、楽しさよりも義務感でやってしまうような感覚に陥ることって結構あるんですよね。純粋に楽しいからという動機で始めたはずなのに、いつしか追われるようになってしまうことがある。そんなテーマでカウンセリングしてもらいました。

私も日々、自分のことを相手に話していくだけで問題点や解決策に気づけるということを実感しています。答えはすべて自分の中にあるにも書いたように、あらゆる問題についての答えはすべて自分の中にあるものなのですが、なかなか自分の気持ちに一人で気づいていくのは難しいんですね。そんな自分の気持ちに気づかせてくれるのがこのカウンセリングなのですが、受けてみてやっぱりそうだと改めて思いました。いつもはカウンセラー側なので、たまにクライアント側になってみると思った以上にべらべらしゃべれるもので(笑)、どうしたらいいということも自分でわかっているのだなと感じました。

結局のところ、読んだ人の反応やPV数、知り合いに読んだら嫌われるかなとか批判されるんじゃないかといった、他人の目を恐れるからこそ、思ったことをそのまま書くのではなく、遠慮がちに書いてしまうことがあり、それが楽しさではなく義務感を生む原因なのではないかということをしゃべっていました(笑)。他人の反応を少なからず気にしているからこそ、思った通りに書けない自分がいる、と。いつも自分の思うままに書くことができたら、ずっと楽しんで書けるので、義務的な感じにはならないんじゃないかな、とそんな気づきでした。他人からの評価を気にしてしまうと、自分らしくいられない=楽しめないってことですね。楽しい=自分らしくいられるときの記事にもつながり、最近の自分のテーマを改めて感じた昨日でした。

仕事でも何でもそうなのかもしれません。好きを仕事にすると、好きで楽しくてやっていたことがいつしか義務になってしまい、楽しめなくなってしまうということは往々にしてありそうです。それは、自己表現よりも相手のニーズや他人の評価を気にした仕事をしていかなければならないことに対する抵抗でしょうし、誰しもが通る道なのではないかなと思います。その辺りのこともやりたいことと周囲のニーズの記事に書いていて、やはりいつも頭にあるテーマです。私もこの点に関しては答えがないなぁと思っていて、自分の納得のいく部分で折り合いをつけるしかないんじゃないかなというのが現実的な意見です。

書くことに関しては、もっと辛辣で毒舌な意見を持っているし、言ってしまいたい!と思うこともあるのですが、それはやっぱりまだ怖いわけですね。周囲の反応がありますからね。煽り記事、炎上記事を書ける人って本当すごいなと思います(笑)。あれは強いメンタルがないと書けませんよ。でもオブラートに包みすぎて悶々とするくらいならいっそ書いてしまった方が良いんだろうなとも思うし、辛辣毒舌な記事の方が共感を得られるっていうこともありますよね。カリスマ的教祖様になるためには?にも書いたとおり、ある程度の尖った意見がないと、何が言いたいんだかよくわからないということになります。カリスマ的教祖様になりたいわけではないですが、言いたいことはちゃんと言っていこうという気持ちを新たにしましたね。そして、大切な事に気づかせてくれるこのカウンセリング技法をしっかり習得、実践して、多くの方の気づきをサポートできるようになろうと思いました。

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