まだあった「楽しむこと」への罪悪感

今までもずっと「楽しむこと」へのブロックがあると書いてきた私ですが、徐々に解き放たれてきてはいるものの、まだ完全に心から楽しむことを許せていない自分に気づきました。昨日、働いていた時の友人と大好きな星野源出演の話題ドラマ「逃げ恥」の「恋ダンス」を練習しようということで何度もビデオを見て覚え、明らかに楽しい時間を過ごし、帰宅してからも「あー楽しかった^^」と思っていたのですが、それと同時に「楽しんでいる場合か」といった心の声、罪悪感も湧き上がってくるのを感じたんですよね。

日本は「働かざる者食うべからず」の圧力が強い社会で、「働いていない人が楽しんではいけない」という集合無意識レベルの思い込みはあると感じています。そんなのただの固定概念でしかないので無視して振り払えばいいだけなのですが、自分の中にもまだその思いこみやブロックはあるようで、楽しかったなーと思うたびに、もう一人の自分が「楽しんでいる場合か」とささやいていることに気づくのでした。常に働くこと、仕事、お金につながりそうなことをしなければならないという緊張と圧迫感。いい子であろうと生きてきたことの代償は思った以上に大きいですね。

日本って全体的に勤勉、真面目な国民性と言われていますが、それで良いこともたくさんあるけれど、全体的な余白がないというか、「楽しむ」ことへの規律も厳しいような印象があります。人生は苦しいもの、我慢しろ、楽して生きようとするな、といった固定概念が根強くはびこっていて、それにがんじがらめになって疲弊する人々。特に中高年以上の世代にそういう価値観の人が多い気がして、そんな人に育てられた子ども世代もその価値観を引き継ぎがちになりますよね。私だけではなく「楽しむ」ことに罪悪感を感じてしまう人って、日本人全体で見てもたくさんいらっしゃることと思います。自己犠牲的、苦行好きなのが「日本人らしさ」なのだとしたら、そんなものはさっさと捨ててしまうのが賢明です。もういらない価値観なのですからね。

いつも言っているように、この思い込みの根底には、幼少期に何かを楽しんでいたら親に怒られたとかそんなような背景があるのだと思います。「楽しんだら怒られる(愛されない)」…これはもう確実にそうです。親の価値観が子に引き継がれるというのはこういった形でいつも起こるもの。それが大人になるまでずっと私の足を引っ張るブロックになっていて、楽しもうとする私にストッパーをかけてしまう。「人生を楽しむ」というのは、真面目に生きてきた私にとっては大きな課題ですし、普通に考えたら簡単そうだけれども、完全に自分の人生を楽しめるようになるには、多くの癒しや許しの過程が必要になってきます。今まさにその真っ最中で、自分を見つめながら、エッセンスやヒーリングの学びをしながら、解放しているところです。

今の宇宙の流れ的にも、多くの人が言われたことだけをやるロボットのような人生ではなく、好きなことややりたいこと=楽しいことで自分のスピリットを表現したいという魂の本音に嘘がつけなくなってきていて、でもまだ上の世代から脈々と続く古い固定概念、価値観が根強く残っているために、身動きが取れなくなって先に精神を病んでしまう人が増えに増えているのだと思います。本当に、今のこの時代ってカオスですし、社会の転換点真っただ中だなと感じます。今はまだギリギリ、雇われて給料をもらう方が楽な時代だと思いますが、これ、そのうち絶対逆転します。「楽しむこと」への罪悪感を完全に手放し、仕事と一見関係なさそうなダンスを踊ることも、フラワーエッセンスやカウンセリングの仕事を楽しみながら行うことも、どんな生き方、楽しみも肯定して、心から楽しいと思える人生を堂々と歩んでいきたいと思いました。

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