就活や婚活も、「偏差値」至上主義?

先日、例によって心の友と話していて気づいたことがあったので書いてみたいと思います。最近は大学に通う意味や奨学金について考える記事を書いていて(大学に通う意味と金銭的負担のしわ寄せ奨学金が「就職するための借金」になっているの記事参照)、結局大学に行くのが「当たり前」で、そうしないと就職できなくなっているから行くだけという人が大半なのではないかと考察していました。そして、そのことが教育費の増大、少子化、待機児童問題にもつながっていると書きました(大卒も共働きも、「当たり前」になると苦しいの記事)。大学を選ぶ際にも、就職に有利なように、同じような系統の学部に受かったのであれば偏差値の高い名門校を選ぶ傾向はありますよね。大学での過ごし方よりも、その先の就職(や結婚)を見込んで進学先を選ぶということです。

就職についても同じようなことが言えるね、と心の友と話しました。同業に勤めるなら、知名度が高い大企業、入りづらそうな(「偏差値」の高い)企業に入りたがる傾向があるということです。もっと言うと、(主に女性が男性を見る場合)結婚においても似たような傾向はあるのではないでしょうか。同じ業種の二人と出会ったら、学歴が高い人、知名度の高い企業に勤めている人の方がいいかな、といった感覚です。もっと端的にいえば年収ですよね。年収の高い男=いい男=「偏差値」が高い(難易度が高い)みたいな構図。上の段落で「就職(結婚)を見込んで」と書いたのは、男性は学歴が高い方が(いい企業に入れて)女性にモテる確率が上がるということも無意識レベルで見込んでいるだろうということを言いたかったのですね。昨今の女性が高学歴化しているのは、そういった男性と自然に出会える確率を高めるためではないかと心の友は分析していました(笑)。結構鋭いと思います。

上の例は極端としても、難易度とか偏差値とか人からどう思われるかとか、そういったことで進学先や就職先や結婚相手を選ぶ傾向というのは、大なり小なり今の世の中の風潮としてはあるよなぁと感じます。その感覚の原点をたどっていくと、やはり教育が間違っているのではないかという結論に至ります。以前に勉強嫌いを量産する「比較」「テスト」という記事でも触れましたが、誤った教育施策により、何かの指標を軸に他人と比べて優劣…という根本的な考え方が私達の意識に深くしみわたってしまい、ものごとをありのままに見ることが難しくなっている現状があると思います。本来、就職先も結婚相手も、ステータスではありません。それなのに「偏差値」的なものの見方に慣れ親しんでしまっているがために、誰もが幸せにならない生き方をしてしまっているように見えます。

私が人生で二度としたくないと思っていることの一つに「就活」があります。就活の闇については過去にもたくさん記事を書いているのですが、あんな無意味な茶番はないと思っています。大学3~4年で迎える茶番な就活のために、大学生活は高等教育のためにあるのではなく、就活で有利になるような過ごし方を求められる期間になっているような風潮もあります。「その先の○○のための○○」的な生き方というのは、今を生きていない空虚な生き方ではないでしょうか。学校教育では点数を取ることばかりを鍛えられ、人生に対する世界観や生き方、哲学を構築する機会を奪っているように思います。結果、「人よりも上へ」がモチベーション、他人からどう思われるかを軸とする人生を歩んでしまう人が大多数を占める社会になってしまうのではないでしょうか。

外側にある陳腐な基準を軸とするのではなく、「自分に合った」とか「自分の能力や才能を開花させて」とか、そういったことを重視する意識に転換していく必要があると思います。世の中的に「偏差値」の高い企業に入った人や「偏差値」の高い異性と結婚した人が、みんな幸せになっているのだとしたら、こんなにうつ病、離婚、夫婦の不仲…が蔓延する世の中にはなっていないでしょう。世間体や肩書、年収など表面的なものにとらわれて、中身や相手そのものを見ていないからこういうことになるのでしょうね。中身のない虚構をいくら追い求めても、そこには虚構しかないのです。「偏差値」が人を幸せにするわけではない。「偏差値」至上主義社会で揉まれて生きてきた私は、はっきりとそう思っています。

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