「真の豊かさ」は「時間の自由」に宿る

昨日物質的に豊かな時代に生まれた有難さという記事に、現代は明日生きるか死ぬかのサバイバル状態ではないし、食べ物も住むところもあって、水道ガス電気も通っていて、表面上は平和に暮らせていることがなんて有難いことなんだろうと感じた話を書きました。その一方で、行き過ぎた「大量生産・大量消費」の社会になっているという弊害もあり、食べ物は廃棄されますし、安っぽいものをたくさん作ってはすぐに消費して捨てる…そしてまた買う(買わせる)…という繰り返しで、それが「豊かさ」かというと違うのではないかな、と感覚的に感じる人が多いのではないでしょうか。

以前に「薄利多売ビジネス」の限界感という記事を書きました。今ってモノは何でもあるし満たされている時代で、あんまりたくさん持ってても処分が大変ということもあったり、「ミニマリスト」と言われるような、モノを極力減らして生きようというライフスタイルを提唱する人も現れています。薄利多売を推進しようとすると、商品の価値を下げなければならない局面が必ずあるはずです。そもそも品質の良いものを売っているわけではないのに、同じ価格で売るためにさらに品質を下げるとか…。そして従業員への待遇も必ずブラック化していきます。これは長くは持たないやり方でしょう。

某ファミレスチェーンが24時間営業をやめ、定休日を検討しているというニュースがありました。私は以前に「24時間、365日営業」の限界感という記事を書きましたが、まさに思っていたことを実行された企業があったということですね。これは大きな変化だと思います。卵が先かニワトリが先かはわかりませんが、ファミレスがオープンしているから残業しても大丈夫とか、夜遅くなってもコンビニでご飯買えばいいやとか、長時間労働をお互い促進し合っている構図があると思います。今まではサービス時間を伸ばすことが「価値の向上」だったのかもしれませんが、それにより疲弊した従業員が愛想の無い対応をしたり、常に人手不足でうまく店が回らないという弊害もあったはずです。休みがないと常に緊張感がありますし、何より従業員の意思疎通ができる時間がないんですよね。それは公務員時代も窓口職場だったので同じことを感じていましたが、全員揃ってミーティングする時間がないのは結構困りごとでした。

物質的に豊かであることは有難いことだと思いますが、過剰なモノやサービスのために長時間労働をしたり、安さを追い求めるあまり品質を下げることになったりするのは、本質的な豊かさとは遠ざかるような気がしてなりません。私たちはこんなにも満たされているのに、いつも不足感、飢餓感に苛まれては、「もっと!もっと!」と多くを求めてしまう。そして、「いつまで経っても豊かになれないじゃないか」と自分たちの首を絞めているんですよね。本質的な豊かさとは、心が満たされていることだと私は思っています。モノがあるから、お金があるから、豊かで満たされているということではなく、これは完全なる内面の問題で、外側に起きていることはただただ自分の意識の投影であるということ。ある程度のモノとお金が心の豊かさに直結する感覚はありますが、だからといって貧乏で心が満たされることが絶対にないかというとそうではないでしょう。そして、「お金の自由」よりも「時間の自由」がある時の方が心の豊かさは大きいのではないかと思いますし、時間=人生=命、なので「時間の自由」が何より豊かさに直結するのではないかと考えています。

いくらお金をもらえても、「時間の自由」がなければ心の豊かさには結びつきません。忙しい朝の時間に駅前のチェーン店でバタバタと飲むコーヒー1杯と、お休みの日にのんびり川沿いを散歩しながら入ったおしゃれカフェでまったり読書しながら飲むコーヒー1杯(長っ)とでは、そこに流れる豊かさの感覚が全く違いますよね。大量生産・大量消費、「薄利多売ビジネス」、「24時間、365日営業」は本当の意味で人々を豊かにしたのでしょうか?一人一人が「真の豊かさとは?」について、胸に手を当てて思いを馳せる時代が来たのかもしれません。

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