「する」偏重の世の中で、「ある」についても考える

この世は「する」偏重の世の中だなと感じることが多いです。何もしないことは悪で、何かをすることが良しとされ、褒められる傾向にあると思います。夢に向かって努力したり、困難に立ち向かったりすることはとても褒められることで、学生時代や若い頃は特に「そういったことが評価されるのだ」、という価値観を持って生きている人が多いのではないでしょうか。これも学校教育やメディア、その他あらゆる物語の影響が大きいのかなと思います。

世の中の闇を知るようになると、「する」ということに非常に慎重になってしまう自分がいます。過去に、「良かれと思って」善意の行動の難しさという記事を書いたことがありますが、今もこの記事に書いた通りの思いでいて、何かをするということは難しいことだなと感じているんですね。私の考えすぎもあるとはいえ、世の中は圧倒的に闇なので、本当にいろんなところに罠が仕掛けられているなぁとつくづく思う日々です。

ここで言う「する」というのは、他人から評価されること、受けること、人気が得られること、わかりやすい実績や結果につながること、有償労働、給料が上がりそうなこと、お金にならなくても善行になりそうなこと、やりたかったことに挑戦すること…などが主に挙げられると思います。新卒の学生が就活でアピールできそうなこと、と言ってもわかりやすいかもしれません。何かをすればいいというだけではなく、評価につながることやアピールできること、自己表現になること…が「する」には込められているように思います。そういう意味では、家事や育児といったものは「する」の中にはあまり入らないように感じていて、世の中の価値観的に軽視されていることが伺えます。そしてそういった人々の「する」偏重に応じるように、悪魔的な存在がトラップを張り巡らせている…そんなような構造があるのではないでしょうか。

では「ある」というのは何なのか、というと、大きく2つのニュアンスがあるように考えています。一つは、ただ存在しているだけで素晴らしいのだ、という無条件の愛や絶対的な肯定というのでしょうか、そういった感覚です。何かをするから素晴らしい、できるから…持っているから…才能があるから…という条件付けではなく、存在そのものの肯定、といったニュアンスを感じます。もう一つは、その人自身のあり方、つまりは生き方・考え方、価値観、ものの見方、人格、人間性…といった、いわゆる中身のことです。何かをするにしても、その動機や思いによって、過程や結果が大きく変わってくるはずです。

自覚がある場合もない場合もあるとは思いますが、何かをしようとするときに、自己肯定感の低さやコンプレックスを払しょくする…という目的が見え隠れすることも多く、それは結局のところエゴということになり、自分が望んだ評価や結果が得られないと、とても苦しむことになります。というよりも、やはりエゴが強いままでは成功したところで幸せになることはできず、「ある」の欠乏感を「する」で補うということは、なんとなくうまくいきそうに見える罠というか、幻想なんだなと思いますね。

「ある」の方は精神的な営みで、内観、内省が重要になってくるのですが、いくら内観、内省したところでその結果が数値として見えるわけではないし、誰かに褒めてもらえるわけでもなく、お金にもつながらないので、真剣に取り組む人は少ないのかなと思います。そのやり方も「こうすればこうなる」というマニュアルがあるわけではなく、自分自身で試行錯誤しながら日々取り組むものであるし、わかりやすいゴールの指標もありません。しかしながら、本当に幸せになる…ということを考えると、一見いいことのなさそうな「ある」への取り組みの方が本質的で、やりがいがあることだと思います。

私がそのことを強く感じられたのも、「する」ことが難しい状況になったからだと感じています。体調不良で思うように「する」ことができなくなってしまい、ある意味世の中の弱者と呼ばれるような人の気持ちがわかるようになってきました。心身ともに健康なうちは良いのですが、生きていればいつか病気になったり障害を負ったりして、思うように「する」ことがかなわなくなる日が来ます。たくさんの自己否定的な想念が出てきて苦しむことになるけれど、それも「ある」に取り組むための大事な過程なのだと、今はわかるようになりました。

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