とにかく自分が楽しい人生を送る

昨日はひどく疲れていたので早めに寝る準備をしていたのですが、寝る前にちょっと長めに瞑想状態に入ってみたのですね。最近「魂の目的を思い出す」的なエッセンスを飲んでいたので、日々変化を感じていたところだったのですが、昨日の夜はその「魂の目的」みたいなものに少し気づけた気がしました。寝る前にぼーっと変性意識状態になって、「もう誰かのために生きるのは嫌だ。誰かに尽くすのは嫌だ。自分自身が心の底から楽しい人生を送りたい!」とはっきり宣言していたんですね。

「で、それは具体的に何?」というところまではわからなかったのですが、私は今回の村上遥としての人生では、「他人に尽くすのではなく、とにかく自分が楽しい人生を送る」ということを目的として設定してきたようです。私もこのnoteでさんざん書いている通り、とにかく楽しもうとか自分がご機嫌でいようということをモットーとしているので、まさにその通りだなぁという感じなのですが、わざわざスローガンとかモットーとかに掲げないとそうできない、つまりは楽しむことに課題があるということでもあります。楽しむことに罪悪感。深いところではそんな思いもあったなぁと感じますし、日本人によくある自己犠牲的精神とか苦行好きとかそんな一面もあったように思います。それは親、祖母…と代々受け継がれてきた思い込みのように感じられ、そのカルマを私で断ち切りたいなぁと、そんなことも思いました。

昨日書いたカリスマ的教祖様になるためには?の記事にこんなことを書きました。
「私がスピリチュアル的な仕事を始められると思えたとき=自分がすごく満たされて、あふれた愛で癒しの仕事ができると感じられたとき、なのだと思います。」
昨日の瞑想中にこんなことも感じました。とことん自分自身が楽しい人生を送ることで、私自身がすごく満たされ癒されていく…そういう状態になれば、心に余裕を持って癒しの仕事ができるようになる、という感覚を得たんですね。エゴでやらなくなるということ。そこまで満たされていれば、承認欲求とかほめられたいとかすごいと思われたいとか、そういう気持ちではやらないだろうと。心の底から人を癒す仕事がしたくて、それが楽しいという人もいると思いますので、本当に人それぞれではあります。ただ、私の中では、やろうと思えばすぐにヒーラーやカウンセラーやセラピストと名乗れるからこそ、そう簡単に人を癒す仕事は始められるものではない、と感じており、今はその直感を信じています。技術や知識よりも何よりも「あり方」が大事なのであって、その方自身が癒されていない状態で始めるのは、双方にとってあまり良い結果を生まないと感じています。

これからも引き続き、ヒーリングやカウンセリングなどの勉強は続けますし、スピリチュアルな学びを否定するわけでももちろんありません。自分を癒す過程に終わりはなく、いつまで経っても完璧に癒された状態にはなりえないと思っています。ただ、私はまだ癒しの仕事を始めることを自分に許可できるレベルまでには癒されていないと自分で感じているというだけです。より深いレベルで自己を見つめ直したいですし、技術や知識ももっと磨いていきたいと感じています。そして、自分がさらに深い癒しの状態に達するためには「自分自身が心の底から楽しい人生を送る」ことが大切で、これからはとにかく自分が楽しむことにフォーカスして、今までの自分だったら欲張り!と感じるくらい、楽しむことに貪欲に生きていこうと思いました。大切なことに気づくことができ、自分のことをもっと好きになれた昨夜のひと時のシェアにお付き合いいただき感謝しています。

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