人生をつまらなくする「作業化」「立場」

明日は「シニアハーバルセラピスト」というハーブの資格の試験があります。1か月前くらいから準備をしていましたが、追い込みのここ1週間くらいは暗記モードに入っており、細かいところを覚えていくような作業をしています。勉強し始めの頃はノートをまとめつつ、一つ一つを理解しようとして、薬理学の本を引っ張ってきたり、他の本から補足事項を書いたりと、「実のある」勉強をしてたのですが、ここ1週間は「暗記というゲーム」をしている感覚であんまり面白くはないかもしれません。本当に興味があって学ぶというよりは、試験に合格するための勉強になってきたのでつまらないんですよね。

まぁそれも明日終われば解放される期限付きのことですし、たまには詰め込み学習をするのも脳の活性化になるかもしれません。やっぱり、何をするにしても、その「目的」というのは重要かなと思います。興味のあることはどんどん知りたくなるので、別に試験なんかなくても勝手に調べて本読んだりノート書いたりしますし、決められた枠があるわけではないので、派生する他の分野も気になればやればいい話で制限はないですよね。ある試験範囲というものがあって、その範囲内を効率的に学んだ方が良いこの試験勉強期間は、私にとっては少し苦痛です。今は占星術にも興味があるので、試験が終わったら始めようと思っているのですが、やっぱり終わるまではなんとなく試験が気になって着手する気になれませんでした。「興味があって」勉強している状態から、「試験に受かるために」勉強している状態に変わった、つまり「目的」が変わってしまったからこそ制限はあるし「作業化」してしまうということなのだなと実感します。

勉強が「作業化」してしまって、盲目的にその内容の是非はともかく覚えないといけない状況っていうのが、今の奴隷労働の構造に似ていると思ったんですね。今やっている仕事、やらなければならない仕事の社会的な意義とか本質的にどうとか、自分の信念に合致するかとか、そういうことはともかく盲目的に「作業」「ゲーム」として取り組まないといけない状況というのが今の社会の大多数の組織で見られます。意義とか本質とかを考えてしまうと仕事にならないからこそ、「作業化」「ゲーム化」することで目をそらしてしまっているんですよね。

実際、今のハーブの試験のテキストでも、予防接種を推奨する記述などがあるのですが、私はワクチン接種には反対です。でも、テストでその問題が出たら、「●●の予防には予防接種を受けること」と答えないといけません。私の本心はワクチンは打たない方が良い、と思っていますが、試験ではそのように答えないといけない。試験くらいなら良いけど、人生の大半の時間を費やす仕事で「●●の予防には予防接種を受けること」と言わないといけないのは耐え難いです。奇しくも本当の私の状況とかぶったのですが(公務員の立場ではワクチン接種を推奨するので)、組織で働く以上、大なり小なり「本心ではそう思ってないんだけど言わないといけない」というシチュエーションはありますよね。

自分の信念と違うことを言ったりやったりしないといけない状況って、私としてはすごいストレスに感じるんですが、それはどなたも同じですよね。「本当はそう思ってないけど」と思いながら働くのは苦行ですよ。上の例でも大事なのは、ワクチンの本質的な是非ではなく、「ワクチンを本当に病気の予防に役立つものと思って」勧めるか、「ワクチンは本当は無意味で有害と思っているのに」勧めるか、であって、信念とやっていることが一致していれば辛くはないんです。どうしても「立場」というものが足かせになってしまいますよね。

まとまりのない記事になってしまいましたが、おおざっぱにまとめると、ハートから湧きあがる欲求に従って行動するときは楽しく、頭で設定した目標に従って盲目的に行動すると「作業化」してつまらなくなる、また、ハートの思いや信念に従って行動できるときには満足感を覚えるが、頭がその信念を押し殺して「立場」から行動したり発言するときにはひどく葛藤があり、ストレスフルであるということです。ハートをないがしろにしていくと本当に心身ともに腐ってしまいます。私ももっともっとハートの声に忠実に生きようと改めて思いました。

note過去記事一覧はこちら

ホリスティックな健康をサポートするGreen Cosmoのページはこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?