「この世には善も悪もない」は本当か

引き続きここ最近しつこく言っている「この世のしくみ」についての話題です。スピリチュアル系のことをかじると必ず出てくる「この世には善も悪もない」という言葉。私は昔から正義感の塊で、「これは良い、これは悪い」というジャッジをしがちな性質をずっと持っています。大人になるにつれて、自分の思い込みで自分や他人をジャッジすることで批判的になったり罪悪感を感じたりするのだということに気づくようになり、「ジャッジが自分を苦しめていたんだな。なるべくジャッジをなくしていった方が良いんだな」と思うようになってきました。同じようなことを感じられている(感じたことがある)方は多いのではないでしょうか。

オフ会でも話題になりましたが、私たちは条件付けの愛の世界に生きていて、超幼少期の親子関係で「○○しちゃダメなんだ」「○○しないと愛されないんだ」という思い込みのパターン(ブロック)をつくってしまい、そのパターンをずっと引きずって生きているんですよね。「この世に善も悪もない」といった言葉は、本来は「○○しないと愛されない」という条件付けはないんだよ、無条件に受け入れられている存在なんだよ、という意味では本当にその通りだと感じますし、疑う余地もないことだと思います。私たちの苦しみのほとんどすべてがこの「条件付けの愛」による思い込みのパターンや制限が根本にあると感じます。この思い込みを解放して、無条件の愛に目覚めていくことが「癒し」の神髄だと思うんですよね。

ただ、「この世に善も悪もない」とはいえ、明らかに「悪」という存在はいると思います。嘘をつく、裏切る、欺く、詐欺、不正、強欲、傲慢、恐怖政治、支配…これらはどう考えても「悪」だと思います。そして、こういった「悪」というのは「エゴ・欲・自我」意識の肥大から来ているのは間違いはありませんよね。残念ながら、地球での人類の歴史というのは、支配ー被支配、奴隷制の歴史であり、常に「悪」の存在が牛耳っているという現実があります。いつまでたっても(庶民にとっての)世の中が良くならないのは当たり前なんですね。途方もない何万何十万何百万…という期間の間、ずっと一部の存在により支配されてきたわけですから、庶民の暮らしが良くならないというのは今に始まったことではないんですよね。

人々が「エゴ・欲・自我」が強い意識でい続ける限り、いいように支配され続けてしまいます。支配する側にとって最も都合が悪いのは、お金や女などの誘惑には目もくれず、真実を見抜き、自然を大切にし、身近な人とあたたかい愛のある関係を築いて幸せそうにしている人だと思います。この世の庶民が全員、そんなあたたかくて賢い人たちだったとしたら、世の中はひっくり返るような気がしてなりません。スピリチュアルや癒しといったものは、本来そういった意識に目覚める人を増やすようなものであってほしいのですが、現実はどうでしょうか。オフ会でも話していたのですが、いかにも悪そうなワンマン社長がエゴバリバリで傲慢で…というのはまだわかるけれども(笑)、一見いいことを言っているスピリチュアルリーダー的な人がエゴバリバリで傲慢で…というのは余計にたちが悪いと感じます(笑)。本当にすごい人はすごいアピールしないのと同様に、傲慢なスピリチュアルリーダーというのは自己矛盾ではないかと思います。

「この世に善も悪もない」とか「楽しいこと、ワクワクすることだけをしよう」とか「頑張らない方がうまくいく」とか、様々なメッセージはありますが、その言葉自体が多次元的と言いますか、受け取り方次第では誤解や勘違いを生みやすいものが多々あるように思えます。何を信じるかは完全にその方次第なのですが、「エゴ・欲・自我」意識を満たしてくれるような安易で甘い言葉には十分気をつけたいところだなと感じました。

5月14日(日)オフ会やります~→オフ会・イベント情報

note過去記事一覧はこちら

ホリスティックな健康をサポートするGreen Cosmoのページはこちら

「note見た」で友達申請→村上遥のFacebook

Twitter再開しました!→Twitter

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?