「仕事=アイデンティティ」思想への疑問

最近読んだ本に、印象に残った部分があったので少し紹介したいと思います。読んだのは『アマゾン・ドット・コムの光と影』(横田増生著)という本。「○○の真実」「○○の実態」「○○の裏側」といった真実暴露系の記事や本が大好きで、そういったタイトルにはめっぽう弱い私です。この本はアマゾンがまだ今ほど巨大化していなかった2005年に書かれたもので、記者の方が物流倉庫のアルバイトに潜入した経験をベースに、アマゾンという企業の実態に迫った潜入ルポルタージュです。

アマゾンの物流センターの業務の実態についてかなり詳しく書かれていて、労働問題を考える上でも非常に興味深い本でした。現在も全く同じ労働環境なのかはわかりませんが、おそらく大差ない勤務体制なのだろうなと想像します。アルバイトをガチガチな規則で縛り、厳しいピッキングノルマを課して監視。棚から商品を持ってくるという単純作業なのでもちろん時給は安く、人はすぐに入れ替わり、来る者拒まず去るもの追わずという状況。そのことは今回の記事の本筋ではないので軽く触れるだけにして、私が気になったのは以下のような記述です(p.120)。

番号に従って本を探してくるだけという子どもにもできそうな仕事に、大の大人が働きがいを感じることは難しい。だから仕事がアイデンティティとはなりえない。そうなるとこの職場に愛着を持つことは難しい。(略)
しかし、「熟練」が必要ないこのような職場が増えている現代では、アルバイトたちはどこで仕事にアイデンティティを持てばいいのだろう。

現代はとにかく「仕事」というものに重きを置いている社会なので、「仕事=アイデンティティ」という思想に傾きがちだと思います。仕事をしているということそのものが自己価値感を下支えしている(無職だと自信が持てないなど)ということもあるし、何の仕事をしているか、何の職業か、何と言う会社に勤めているか、ということがステイタスになるということもあります。前者に関することは働く必要がなくなったら困る「仕事人間」現代における「有用性」至上主義の呪いという記事に、後者については職業・学歴より大事な生き方・考え方という記事に似たようなことを書いています。

おそらくこのルポを書いた方は、何も考えない奴隷ロボットの代わりとしての人間の労働について、肯定的な捉え方はしていないと思います。”注文してすぐ届く”という利便性のためには、まだ機械化できない単純作業を人間が行う必要性があることは理解しつつも、現場を見るとあの働き方は人間としてどうなのよ?という気持ちになる……それが良心ある一般庶民の正直な感覚なのではないかと思います。考え意見することが許されない機械・奴隷のような仕事に、働きがいはないし愛着も持てないというのはその通りです。

その一方で、仕事にアイデンティティを見出すことを強いられるような社会のあり方にも疑問が湧いてきてしまいました。現代社会は仕事と自己を同一化しすぎているような気がします。これは私が常々問題視している女性の社会進出や保育園問題とも関係があると思っています。近年の女性が子育てよりも仕事に重きを置く傾向は、「仕事=アイデンティティ」という感覚とは切り離せないものであり、単純に夫の給料だけではやっていけない…という問題だけではないと見ています。

そしてここで取り上げているところの「仕事」というのは、「お金を得る手段」のような意味合いで使われているのも気になります。それで収入を得ていようがいまいが、その人の人生の中心にあるものが、先の文脈で言う「アイデンティティ」なのであって、「お金を得る手段としての仕事」が「アイデンティティ」になる人もいれば、そうでない人もいて当たり前ですよね。もっと言うと、その人がした(している)ことも大事ですが、その根底にある生き方や考え方のほうがよりその人の純度が濃いと言いますか、「その人らしさ=アイデンティティ」そのものなのではないでしょうか。何を仕事にしているかというのは、その人の生き方・考え方の結果の表層の部分にすぎないのに、それが極端に重要視されている世の中に疑問を感じています。

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