「人の役に立ちたい」はエゴなのか?

仲の良い友達が体調不良を訴えていて、私もおせっかいながらに「その症状ならこうすると良いよ」と知る限りでの情報をお伝えしたりしていたのですが、最近その友人から体調不良の改善が見られたとのことで喜びの声を頂き、私も本当に嬉しい気持ちになりました。なんというか「生きてて良かった」と思うし、本当に涙出てくるんじゃないかというくらい嬉しかったです。それは、彼女の体調が少しずつ良くなってきているということもそうですし、私自身が他人の役に立てた、感謝されたことを実感できたのが何より喜びでした。

よく、「人の役に立ちたい」「感謝されたい」という気持ちに対し、「それはエゴだ」「承認欲求を満たしたいだけだ」という反論を見かけます。確かにそれは一理あって、感謝されることで自分の存在意義を確かめたいみたいな欲求って誰しもあるよなぁと思います。「してあげる感」がどうしても出てしまいますからね。ボランティアなんかがよくこの批判(?)の対象になってますね。実は見返りを求めているだとか偽善者だとかなんだとか。おそらく、「いいことしてるでしょ」感丸出しとか、そればっかりアピールする人に対して嫌な気持ちがするのだと思います。

「人の役に立ちたい」「感謝されたい」という欲求とか思い自体は人間として当たり前の感覚だと私には思えて、いくらエゴだとかなんだとか言われても、その気持ちは消えないというか、無理に消すこともないのかなと思ったりもします。存在している時点で誰かの役に立っているし、何もしなくても役に立っている、役に立たなければ存在意義がないなんてこともなく、いるだけで存在意義があるのだ、存在しているだけで、ありのままでオッケーなのだ、という大前提の主張もよく見ますね。どんな仕事でも誰かの役に立つのだから、「人の役に立つ仕事がしたい」という言葉自体が矛盾している、などなど、「人の役に立つ」論争にはいろいろあります。なんかこう、純粋な「人の役に立ちたい」という気持ちって、足を引っ張られがちだし揚げ足を取られがちな言葉ですよね。

私の以前の公務員の仕事も、「人の役に立つ」仕事ではあったと思いますし、同僚にもお客様にも感謝されるような仕事はある程度してきたかなと思います。世の中の裏を知ってしまうと反社会的な仕事も結構ありますが、表向きはクリーンなことをしていましたしね。ただ、やっぱり自分が本質的に人々のためになる、世の中のためになると思うことができなかったので、辞めることにはなりました。あの仕事も人の役に立てていたし感謝されていたじゃないか、じゃあなんで辞めたのだ?と考えた時に、「人の役に立ちたい」「感謝されたい」という気持ちは、ただそれだけの言葉ではなく、もっと深い魂的な欲求とも関係してくることに気づきました。

お友達の体調が改善したという報告を受けて嬉しかったその感覚というのは、公務員時代とか他の仕事で役に立った、とか感謝された、ということ以上に嬉しいというか、もっと根源的な喜びという気がしたのですよね。本当に涙出るような。おそらくは他の誰でもない私がしたことに喜んでもらえた、という感覚でしょうか?今までの仕事のように替えがきく仕事では得られない感覚かと思います。自分が必死に調べたり経験してきたことをシェアできて、それがこの世に表現されて「価値」になったということかもしれません。「生きてて良かった」くらいに嬉しく思うその感覚というのは、「地球に生まれてきた理由や目的」と密接に関係しているのではないかと思うのです。その目的が果たせたと実感したからこそ涙が出るくらいの喜びを感じられたのではないかと。

「やりたいことや好きなことがわからない」という方はたくさんいらっしゃると思いますが、一つの軸として、「他人にこんなことで役に立って、感謝されたら涙出るほど嬉しい」ということを探すと、それが「地球に生まれてきた理由や目的」に近づく手助けになるかもしれません。接客したお客様が喜んで商品を買ってくれたら嬉しいとか、自分の手作りの商品が必要な人の手に渡って使ってもらえたら嬉しいとか、人それぞれいろいろあると思います。その目的を実行できるような人生に方向転換することが、その方自身の「調和」であり、私のいつも言うところの「魂を輝かせる人生」につながっていくと思うんです。「存在しているだけで役に立っている」という意識は大前提として持ち、その上で「こんなことで役に立って感謝されたらすごく嬉しい!」と思うことは何だろう?と意識を向けていくと、本来の自分らしい人生に近づいていけるのではないかな、と思います。

note過去記事一覧はこちら

ホリスティックな健康をサポートするGreen Cosmoのページはこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?