「先生」と呼ばれることに抵抗があります

昨日、とある方の紹介で知り合った方とカフェの店長さんとお話ししていて、私の学んできた自然療法のワークショップ開催ができそうな流れになりました。それもこれもすべては「人とのつながり」が最強のリスクヘッジの記事にも書いたとおり、人とのつながりが運んできたものです。個人の時代は人とのつながりが本当に重要だなと実感しました。個人同士のつながりにおいては、「組織」のしがらみがないから、本当に気の合う人同士でしか一緒にいられない。たまたま同じ職場に配属した気の合わない人と一緒にいる必要がない。それだけでもだいぶストレスフリーですし、同じ意識の方同士でいると、エネルギーが同じ方向に向かうので目的が達成しやすいですしね。いいことづくめです。

さて、本題ですが、いざワークショップをやったり、講座をやるとなると、「先生と生徒」みたいな関係にどうしてもなりますよね。私は以前から「先生」とか「係長」とか「社長」みたいな敬称について考えることがあり、その肩書をつけることにより、上下関係が浮かび上がるし、少し距離を感じてしまうことにつながると思うんですよね。私が誰かを○○先生とか○○係長とか呼ぶことは多いけれど、自分が「村上先生」とか呼ばれるのは嫌だーみたいな気持ちはずっとあります。

そんなことを思っていたら、尊敬する高城剛さんのメルマガvol.248(2016年3月18日配信)でも同じようなことが語られていたので引用します。(個人ブログには出典を明記すれば引用して良いとのこと)

たぶん二十歳を前後する頃からだと思いますが、いつの日か「先生」や「社長」と呼ばれるようになったら終わりだな、と思ってまして、それは、いまの日本を変えようとしない人たちが、「先生」か「社長」だからなんです。僕も「先生」と思われたら、そろそろ終わりが近づいているのかもしれませんので、転職を考えないといけませんね!これは、言いえて妙かもしれませんが、僕の憧れは、たとえどんなに大成しても「先生」や「社長」といつまでも呼ばれないことにあります。なぜなら、「先生」や「社長」と呼ばれることに違和感を感じなくなれば、それは変化を求めない姿勢そのもので、成長を諦めた証のように思うからなんです。一方、僕からどなたかを「先生」や「社長」とお呼びすることは頻繁にあります。その人の本質がわかりますからね。

高城さんのメルマガ購読したくなりましたか(笑)?

「先生」や「社長」と呼ばれ慣れることが、変化を求めない姿勢や成長を諦めた証のようにそのまま直結はしないと思うのですが、言いたいことはわかるなぁという感じ。その肩書に甘んじてしまうというか、やっぱりちょっと傲慢な印象を受けるかもしれませんね。いわゆる政治家とかいわゆる名誉教授、いわゆる名医みたいな方。そういった方への皮肉を込めてのこのメッセージなのだと思いますが、今の日本の重鎮50代~70代くらいの人々にこういう感じの方が多いイメージですね。

自然施設のアルバイトで「森のようちえん」という未就学児を対象とした自然の中で子どもと遊ぶ事業のお手伝いをすることもあるのですが、未就学児に「先生」と呼ばれることもたまにあります。幼稚園では「○○先生」と呼んでいるのでしょうから、その延長だと思うのですが、その時もすごい違和感を感じています。子ども相手に「私先生じゃないよ」って言いたくなる(言わないけど)。英語だと先生のことも「ミスター○○」とかって呼びますよね。幼稚園児くらいでもそうなのでしょうか。

「係長」「課長」みたいな呼び名も、組織がなければ絶対に存在しない言葉。個人のフラットな横並び共同体であれば、そういう階層はないわけだから、みんなが「○○さん」同士でつながれる。その共同体の中では医者も教師も「○○さん」で良いじゃない。そういう関係性の中でこそ、誰もが自由に意見を言えたり、発想を膨らませられたりして、創造的な価値が生まれていくような気がします。

役所時代には、昇任試験を受けるように勧められたこともあったし、周りからも昇任するつもりなのだろうと思われていた節もあったようですが、「村上係長」とか想像しただけでも嫌ですね。もしなってたら「村上さんって呼んで」って言いたいけど、それを言わせない組織の雰囲気に飲まれてそのうちに呼ばれ慣れて、「村上さん」と呼ばれると(えっ、村上「係長」でしょ)と心の中で思うようになったりしてたのだろうか、とか想像してみたりします(笑)。実際そうはならなかったわけですが、最初は違和感を感じる人も組織に浸かっちゃうとそれが当たり前になるってことはありますよね。「社長」と呼ばれることで「社長の器」になるみたいな話もありますしね。

全くまとまらない話になってしまったのですが、これからの共同創造の時代においては、「先生」「生徒」「医者」「患者」「権威」「庶民」みたいな階層や境界をきっちり分ける必要はなく、より上下関係をなくしたフラットな人間関係が吉かなと感じます。普段何気なく使っている「○○先生」「○○社長」といった呼称にも目を向けてみると、今の世にはびこるピラミッド構造がほんの少し垣間見れますよね。私の「先生呼び」に対する違和感も、このピラミッド構造への違和感に根差しているのかもしれませんね。

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