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防波堤のコンクリの砂

「もし私が、こう生きられてたならね……。」

 あの子がそう言ってから何年経ったのかというのは、もはやいちいち言うことでもないし考えることでもないのかもしれないけれど、自分がいざそういったという事を考え出すと否が応でも言いたくなるし思い出してしまう。
 虚ろで緩やかな川の流れのような時間の中で私はそうやってあの子の事を思い出すのだ。それが不毛なのはわかってるし無駄なのも分かっているが、なかなかそうもいかないのだ。

───

 風は次第に冷たさを深め、夏が終わりを告げた事を暗示した。遠くの国道を走る車の多さで時間帯が分かるこの防波堤には、太陽が去ろうとする夕刻の物悲しさが一足先に降りていた。

「そう言うけどさ、あんたって既に自由奔放に生きてるじゃない。『こう生きられたなら、』なんて、意味のわからない事言ってさ。どちらかというと私のセリフよ、それ。」
「いいじゃない。言うのは自由よ。」

 高校をさっさと中退し、実家が営む定食屋の看板娘の真似事をしながら(真似事というのがいい)あの子はいつも、『真面目』な高校生であり元同級生でもある幼馴染の私と、よくこの防波堤で時間を無為に過ごすのが日課だった。

「それもそうね。」と言って私が義務的で年齢的に違反となる煙草の煙を吐き出すと、ゆらりと粘り気の有る煙が立ち上り、あの子はそれをただぼんやりと眺めたのを覚えている。でもあの子は眺めてもいないし見てもいない。いつだって彼女は、物質のフィルターを透かしたその奥にあるものを見ていた。
 その日だってこの『こう生きられたなら』のセリフの本質がどこにあるのかなんて、長い付き合いの私でもよくわからなかった。意味が有って言っているのかも分からないのだから。

「まぁでも、」あの子は空中に立ち消えた煙を名残惜しそうに見ながら私に視線を戻す。「あんたもいつか分かるよ。そんな気持ちになる時が必ず来るからさ。その時それをどう解釈するかっていう自由を、人はそれぞれ与えられているの。」

 風に舞うハンカチの様に立ち上がると、西日を背にするあの子の顔にはそっと暗い影が覆いかぶさり、その表情を隠した。私はそのある種の異次元的な光景に、なぜか自然と唾液を嚥下したのを覚えている。

「あのね、」

 あの子はふと絞り出すように切り出した。そして私は一層冷たくなった風に、少し体を震わせた。

「ううん、いや……。でもね、私はいつだって自由という拘束を受けているんだよ。それはやっぱりそういった立場じゃないと分からないだろうし、それを貴女に理解してとも言わない。でも一つだけ分かっていて欲しいのはね、私が実のところ貴女の事が世界で二番目に大好きだったって事。一番が何だとは聞かないでね。それはとても不毛なことだし、伝えてもきっと伝わりきらないだろうから。ごめんね、貴女を馬鹿にしたりしてるわけじゃないの。でもこればかりは、私そのものでなければ分からない事だから。」

 そこまで言うと、何故かさっきまで見えなかったあの子の顔が、妙に輪郭をくっきりとさせ、はっきり見えるようになった。その表情が手に取るように見えたのだ。その時、私はこの世のどんな不幸や怠惰や劣情や卑屈も、あの子の心を折ることはできないんだと感じた。
 そしてもう一つ、とても美しくて奇妙だと感じたのだ。

───

 この話はこれ以下でもこれ以上でもない。別にあの子は死んだわけでもないしきっちり生きてるし、あれからもずっと、元高校生になった私と一緒にいる大切な友人だ。この子はあれから何も変わってないし、これからも変わることもない。
 結局あの時の話は何だったのかよく分からないし、当の本人は話をしてすっきりしてしまったのか話の大まかな意味合いがすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていた。
 あれから本当に何も変わらないのだ。少なくとも表向きは。

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