彼方の彼女はわたしの夢で涙を流す【第十七話】

2016年 11月8日

東京

 夏に綾香と再会し、そして東京に戻った2ヶ月前から、私はいつにも増して彼女の夢を見るようになった。
 夢の中ではいつも私の為に綾香は涙を流し嗚咽を漏らし、私はその姿を追い求めて真っ暗で人一人いない地元の街中を果てしなく駆け回る。いつも姿は見えないし、声の出どころを見つけることすらできない。
 次第に街は闇が濃くなり、その闇の中に取り込まれてしまうんじゃないかと不安になり、やっとの事でプールの縁を掴んで上がり大きく息を吸うようにして目が覚める。
 大概は凄まじい寝汗を書いて目が覚め、秋口で肌寒くなった今でもそれは変わらなかった。
 
 連日の寝汗で風邪をひき、私は寝込んでいた。熱にうなされて喉は腫れ、鼻水と咳は止まらなかった。体力に自信はあるのだが、精神的に参っているような気もする。つばを飲み込むのも重労働だった。病院でもらった薬もなかなか効果を見せない。
 関節の痛い体を起こしてスポーツドリンクを飲みもう一度横になると、天井がゆらゆらと回るような気がした。正直限界だった。聞きたくもないのに、眠るとなにかの音楽のワンフレーズが頭の中を延々とループし、少しだけ眠れば奇妙な夢を見てクタクタになって目が覚めた。
 伸びていく意識の中で、私は無意識に綾香の名前を呼んだ。叫んだつもりだが多分掠れた声しか出ていないだろう。
 今も昔も愛した女性。いつまでも愛するつもりだった女性。もう会えない女性。このまま彩香のもとに逝けるなら、様々に絡みついた因果を断ち切ってもいいと思える。
 なぜ私を置いて逝ったのよ。私は一ヶ月前、地元に戻りそう叫んだ。ずるいじゃない、自分だけ逃げないでよ、私の気持ちはどうなるのよ、理解できない。そう言って大騒ぎした私は、一緒に来ていた先輩に引きずられるようにして葬儀会場を出た。一週間後に東京へ戻っても、私はいつまでも気落ちし続けた。
 私の夢で彩香が泣いている理由は、己の運命を呪ったからなのか、自殺した後悔からなのか、逃れきれない闇に絡め取られ動けないもどかしさなのか。
 私にはわからなかった。

 私はいつしか眠っていた。目が覚めると誰かがいるのを感じる。部屋を動き回り、何かをしているのが目を開けなくてもわかる。重たい瞼を開いてその正体を確認しようとするのだが、張り付いたように動かない。私がそうやってもがいているのを唸っていると思ったのか、気配は私の側に近づき枕元に座った。しばらく様子をうかがっていると、突然、額に強烈な冷たさを感じた。
 その冷たさに軽くなった瞼を開けると、心配そうに覗き込む先輩がいた。私の額には冷却シートが貼られていた。
「なんでここにいるんですか」
「お前が心配でな」
「じゃなくて、どうやって入ったんですか」
「どうやって? お前も見たことあるだろ」
 私は2ヶ月前の先輩の犯罪行為を見ていたのを思い出し、あぁ、あれか。と私はため息をついた。
「今度からチェーンもかけときますね」
「やめてくれ。そんなことしたら、俺が入れないだろ」
「入らないでください」
 先輩は笑うと立ち上がり、台所から鍋を持ってきた。箸やスプーンを用意してお茶をコップに注ぎ、私の首元に手を差し入れ起こすと、「食って元気だぜ」と一言言った。お粥には溶き卵と梅干しが入っていた。
 特に食欲は無かったのだが、梅干しの酸味のある香りが鼻をくすぐり、しばらく食べ物を入れていない胃が反応したようだった。
 フーフーしてやろうか? と言う先輩を受け流しながら、少しずつ口に運んだ。胃が喜ぶ優しい味だった。体に染み入るとはこのことだ。

 先輩はしばらく、散らかった私の部屋の片付けをしていた。物だけじゃなくて服や下着を片付けていく。体が万全なら触らないでください、と言いたいところなのだが、この調子だから今はただ先輩の世話好きに素直に感謝の念しか浮かばない。
 夜のご飯まで用意し、「祐奈。困ったら連絡してこいよ。いつでも来てやるからな」と言って先輩は帰っていった。人がいなくなった部屋をぼんやりと眺めていると、急に心細くなった気もするが、先輩に頼りきりなのも申し訳なかった。あの人にはあの人の生活もあるだろうし、学校にも行かなくてはならない。私に付きっきりにさせるわけにはいかなかった。
 日が落ちてしまうと、私は体を起こして体温を計った。少し下がっていた。額の冷却シートは既に乾き始めていたので、新しい冷却シートを出すために引き出しを開けると、新たに買い足してあった。私は買った記憶はない。多分、先輩が買ってきたのだろう。居間のテーブルを見ると、そこには栄養ドリンクが積み木のように買ってあった。
 なぜ先輩はここまでしてくれるんだろう。と、私は思った。でも私には考える余裕はなかった。私は先輩にメッセージを送り、台所にあった夜用のお粥に火をつけた。くつくつ、と煮えるお粥を見てると、なんとなく涙が出た。先輩の優しさ、だろうか。

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