残された手紙【第十三話】

2016年 8月12日

実家

『誰も知りえない井戸の底の様な場所に、いつも私はいた。
いきなりこんな話から始めてごめんなさい。でもこれはナチス・ドイツのホロコーストの様に変えられない事実であり、まずあなたに知っておいて欲しい事だから。
逃れようのない事実というものはとても冷酷になれるもので、忍び寄る足音は耳の中で大工仕事をしているのではないかと思う程にいつも鳴り響いていた。頭を叩き割って大工の棟梁を引きずり出すために、何度も二階の自宅アパートの窓から身を乗り出した。そんな気持ちってあなたにわかるかしら。自分の存在意義を根底から否定されて、根も残らないくらいの大量の除草剤をかけられてる様なそんな気分。
でも、そこまで思いつめておきながらも、いつもあと一歩で何かが私を押さえつけた。多分恐怖心だと思う。
今の永遠とも思える苦痛から逃れられるというのに一時の恐怖が勝るなんて、なんて笑い草だろう。私はベッドに戻る度に、自分自身を嘲笑した。
更に言うと(あなたも知っての通り)、私は同性愛者だった。「だった」はおかしいか。今現在もそうなのだから。
人にモノをなかなか言えるほど私はオープンな性格ではなかったし、心に壁を作っていたから人は私を敬遠していた。(そして私も他人を敬遠していた)
そんな風に小学校と中学校を経て、高校二年生の時にあなたと出会ったのは、もはや運命と言ってもいいかもしれない。
初めて見つめ合ったとき私は、鉛筆と消しゴムやガソリンと車の関係みたいな、切っても切り離せない宿命の様な物を感じていたのだけれど、あなたは私に何を思っていただろう?
私の顔をじっと見たまま固まっていたのを、昨日のように思い出せる。とても可愛かったからだろうね。
その時を境に暗かった私の人生が初めて花開いたように感じたし、実際、毎日あなたと会えるのがとても楽しみだった。ガイドブックに載った新しいケーキ屋さんに行く前の様な気持ちね、きっと。
二人で学校終わりにどこかへ寄って何かを食べて(あなたはいつも決めるのが早かった)、そしてあの小さな交差点で息子を戦地に送り出す母親の様な気持ちであなたと別れる。
そんな毎日が私のささやかな楽しみで幸せだった。
そんな幸せも、どこか虚ろなものにしてしまうのは私の事実のレゾンデートルとでも言うものなのかもしれない。確実に私の真後ろまでそれは近づいていたし、私もそれをしっかりと感じていた。
それと同時に、あなたが友達としてではなく恋人として私を肉体的に求めているのにも気づいていたし、私もあなたを肉体的に求めていた。でもそれに応えるということは、絶対超えてはいけないラインなのもしっかりと理解していた。
あなたの気持ちに気づきながらも応えないように努めていたのだけれど、私にももちろん性欲というものはある。(そんな事ってあなたに想像できるかしら…)
あなたを抱きたかったし、あなたに抱かれたかった。私がいつも見つめていたそのしっとりとした唇を重ねたり、よく繋いだ手の指が私に侵入するところを想像した。いつもそうする度に私の心は跳ね上がり、自分でどうにもならないくらい程に心臓は踊り狂った。
でもそこまで。
私はあなたに負の責任を背負ってほしくなかった。
あなたの事だから、「私も一緒に綾香の重荷を背負う」と言ったかもしれない。
でも、それでは私が納得できない。
私の事実を知ったりその事実に巻き込まれて、あなたに不幸になってほしくない。
だから私は消える事にした。ごめんなさい。自分勝手ではあるだろう事は承知だけど、これが愛ある別れというものかもしれない。
でも心配しないで。私は生きてる。人はそう簡単に死なない。
何度も死のうとした私がこうして手紙を書いているのだから。(信じてもらう為にあえて手書きにした。とても疲れた)
次もし会うとしたら。その時は既にあなたの知る私ではないかも知れない。だから、そんな姿を見られたくないと言って赤ん坊のように駄々をこねると思うだろうから、願わくば探さないで欲しいというのが私の本心です。
あなたの中の「私」が、いつまでもあなたの恋い焦がれた「私」であってほしいから。円綾香』

 

 その手紙を私はそっと畳んだ。先輩は、俺にも見せろ、とかそんな無粋な事は言わなかった。そういう人なのだ。私はもう一度、手紙を開き、もう一度最初から読んだ。それを3回繰り返した。私は急に吐き気が起こった。トイレに駆け込んでしたたか吐くと、口の中には酸味のあるじわりとした異物感が残った。洗面台で口を拭くと、先輩が背中を撫でてくれた。
「ご両親がいたらびっくりされてたな。『つわりか?』って」先輩は冗談を言った。
「…つわりも何も、私はまだ処女ですよ」
 私が鏡越しに先輩を睨むと、それもそうか、と少し笑って、二人で私の部屋へ戻った。
 両親が出かけてから、ホテルで待つ先輩を迎えに行き、一緒に帰ってから3時間ほど。読むまでにとても時間がかかった。外は相変わらずのカンカン照りなのに、私の周りだけはとても冷ややかに動いていた。クーラーの音だけが部屋に響いて、私は言葉をしなかった。その間、手紙を先輩に渡して、読んでもらった。
「俺が思うに、この子は…」先輩は言いかけて口を閉じた。
「なんですか?」
「いや、ちょっと調べるわ」
 そう言うと、ノートパソコンを開いて何やら調べ始めた。いつになく真剣な顔をして調べていたので、私はなんとなく声を掛けづらくなってしまった。私は飲み物でも持ってこようと部屋を出たが、先輩はそれにも気づかない様子だった。
 階段を降りて熱気の凄まじいリビングで、私は紅茶を淹れた。ボールに氷を入れてポットを冷やす。冷えていく紅茶を見ながら、なぜさっき吐いたのかを考えるが、その理由はよく分からなかった。もしワープロ打ちなら、これは綾香が書いたものじゃない、と言い逃れできたのかもしれないのに、わざわざ手書きだったのだ。おかげで綾香であると認めざるを得なかった。色々な気持ちや情報が私の中を駆け抜けたのが原因なのではと思った。全身を貫く、目に見えぬ放射線の様に。
 紅茶を入れて部屋に戻ると、既にノートパソコンは閉じられ、先輩は再び手紙に目を通していた。私に気づくと、手紙を畳んで少し微笑んだ。
「何笑ってるんですか?気持ち悪いですね」
「あ、ひでぇな」カラカラと先輩は笑った。「なんとなくだけど、彼女はまだこの街にいるような気がする」
「ホントですか?」
「本当かどうか?と言われると確証はないけどね。でも、他に調べるカテゴリーが無い。なので、この線で調べてみようと思うが…」そう言うと先輩はティッシュを摘む様な間を作った。
「この線が当たってるとしたら、見つけるのにはちょいと時間がかかりそうだ」
 先輩はそう言って、紅茶を飲んだ。
 時間はかかるが見つけれる可能性が出てきた。先輩はその「線」とやらについては教えてくれなかったけれど、何かしらの希望の様なものが見え隠れはしていた。
「…なぁ」
「なんですか?」
「この紅茶、めちゃくちゃ苦い」
 

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